生涯と芸術

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ETTORE! Omaggio a Ettore Bastianini il cantante baritono senza pari.

不世出のバリトン歌手   バスティアニーニの生涯と芸術
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シエナとパリオ

エットレ・バスティアニーニ(1922・9・24~1967・1・25)はイタリアでも特に中世の佇まいが広い範囲で残っている世界遺産の都市シエナで生まれた。町の周りを城壁が取り囲む城壁都市で、政治、経済、文化、芸術でフィレンツェと対峙していた往時の面影を色濃く残す誇り高い町で、またシックな美しさも湛えた町である。中でもカンポ広場は貝殻のような半円状に広がった石畳の広場で、その形状に沿って歴史的建造物が取り囲んでいる景観に息を呑む。シエナには約400年行われている裸馬に騎手が乗ってカンポ広場の周りを3周してゴールを競う伝統行事パリオがある。現在シエナの町には動物の名を持つ各地区・コントラーダ(contrada)が17地区あるが、競技は10チームが選ばれて競う。バスティアニーニのコントラーダはパンテーラ( Contrada della Pantera)である。シエナに生まれた人々はパリオの行事に燃えるのは勿論だが、日常的にも生まれた時からパリオとコントラーダの慣習に副って暮らしているといっても過言ではない。バスティアニーニは終生、パンテーラを愛しパンテーラに尽くした。オペラ歌手としての絶頂期の1958年夏、幼い時からの親友であったアルベルト・ジャンニーニからパンテーラの隊長・カピターノ(Capitano)の任に就いてみてはと勧められる。バスティアニーニは躊躇していたが翌年1959年満場一致で選出される。彼は多忙なオペラ出演の中でもパリオとカピターノの仕事をこなしていた。シエナのコントラーダには各博物館があり、パリオの記録や歴史的な絵画等の地区の宝物が保存され資料館的な役割を備えている。彼はパンテーラ博物館を自分達のコントラーダとして良く機能できるように、建物を改修しパンテーラの衣装から活動に掛かる費用など殆どを負担した。

(写真左) バスティアニーニが負担して開設された本部(博物館)、1階の広間で集会が行われていた。

(写真左)数年間に亘って大幅にリニューアル工事を行い、2階部分と地下集会場などを増設し2001年改修を終えた本部。写真奥の中央にバスティアニーニが使っていた椅子が置かれている。

幼少期からバス歌手へ

彼は小学校を終えると近所のパン・お菓子工房のガエターノ・ヴァンニの店で働いた。ヴァンニは音楽好きで地域の合唱団に所属していたので、働きながら共に歌っていた少年バスティアニーニの歌の才能を見抜き、教育を受けさせてあげようと地区の音楽家であるアンマナーティ夫妻に委ねた。シエナの出版社カンタガッリ社のアントーニオ・マッツェオ著「ETTORE BASTIANINI BASSO:STRALCI・・・」によると、アンマナーティ夫妻はバスティアニーニを家族同様に暖かく迎え、教室で彼に全ての音楽教育をしました、と語っている。そして夫妻はバスティアニーニが17歳位になると、シエナの病院などで彼やまた他の生徒達のためにコンサートを催し出演させ、その段取りや費用を夫妻が負担して行っていたという記述がある。このように歌の勉強は順調であったが、1941年春頃18歳の彼は兵役に就かなければならなくなる。夫妻はキージ伯爵から兵役延期の許可が受けられるように要請し、バスティアニーニはフィレンツェのテアトロ・コムナーレのオペラコース入室試験に合格し通うようになった。更に兵役を避ける為1943年シエナに戻り、アンマナーティの助力で思想とは全く関係なく、生きる為とドイツ軍に捕らわれてしまわないためにファッシスト党自警団に僅か数ヶ月の期間だったが入った。その後は兵役に就き、第2次世界大戦におけるイタリアの降伏でシエナやイタリア各地が解放される1944年7月頃には、空軍兵としてフォルリにいたようだ。そこでソプラノ歌手志望のディーヴァという名の女性を愛し翌1945年1月に息子イアーゴを儲けた。正式な結婚をしないままディーヴァとは別れイアーゴはバスティアニーニの母の元で育てられた。

筆者はバスティアニーニの小学校の成績表(日本の通知表に似ている)を見る機会があった。幼少期、学校の授業の音楽は面白くなかったのかもしれない。彼の才能開花はまずはヴァンニの店から始まったようだった。またディーヴァという女性の53、4歳頃の写真を見たが、確かに金髪で快活そうな面影があった。彼女も多くの苦労があったことだろう。

バス歌手

エミリア・ロマーニャ地方の音楽界にいたバスティアニーニは1945年11月16日ラヴェンナのダンテ・アリギィエーリ劇場から『ボエーム』のコッリーネでオペラ公演デヴューをする。続いてフォルリでも『ボエーム』に出演した。1946年はフィレンツェのテアトロ・コムナーレ、ラヴェンナ、フォルリ、ピサで歌手達と共演コンサートやオペラ出演も重ねた。1947年は彼にとって飛躍の年となる。ジーノ・ベーキ(バリトン歌手、1949年マリア・カラスと共演のサン・カルロ歌劇場『ナブッコ』ライヴ録音からも歌唱が聴ける)を中心としたエジプト・ツアーと国内の劇場で多数回オペラ出演し、イタリアオペラでのバス歌手のレパートリーを固めていった。1948年はスカラ座に『オイディプス王』のティレシアスでデヴューした。キャリアを積みバス歌手として脚光を浴びるまではいかなくとも、艶のある音色と美声の持ち主で声量もある歌手だと認められていた。当時のイタリアの新聞評記述が少なからず幸いにも残っていたことからわかっている。しかし彼自身、スパラフチーレやグァルディアーノ神父では低音域で出せない個所があった。『ドン・カルロ』のフィリッポ2世はバス歌手では主役級の歌手が歌うが、諦めなければならなかった。1949年もカイロで活躍しカラカスでも歌い、1950年も彼のオペラ出演は順調だった。1月はカイロで『イル・トロヴァトーレ』『椿姫』『ミニヨン』『ランメルムーアのルチーア』『アイーダ』『運命の力』そして『サムソンとデリラ』である。バス歌手として超一流の主役を歌う人気歌手にまでなれたかどうかわからないが、キャリアとレパートリーが広がり十分バス歌手としての道が固められていた。半面ベーキがカイロで共演を重ねて実感したように、バスティアニーニの声域はバリトンでありバリトン歌手になってこそ美声を発揮できることを指摘していたが、実際、彼はバリトンであることを自覚する出来事が起こる。物事の展開は真理と結びついて起こる不思議さがある。1951年5月トリノの『ボエーム』公演でバスティアニーニはフィレンツェからトリノに移ったルチアーノ・ベッタリーニの元に現われた。レッスンを始めたがバスティアニーニは自分のバス歌手への未来に限界を感じているかのように少し元気がない様子であった。『運命の力』終幕のテノール、ソプラノ、バスの3重唱におけるバスのフレーズをさらう為、ベッタリーニが先にソプラノとテノールを歌っていた所、彼も偶然に先にテノールのフレーズを歌い楽にテノールの音を出してしまった。バリトンの声質であった。ベッタリーニは躊躇することなく彼にバリトンへの転向を進めた。バスティアニーニは今までの順調なキャリアを捨て、仕事をキャンセルした。バリトン歌手として大成できるか先の人生に不安ばかりであっただろうが、ベッタリーニと半年猛勉強した。シエナの友人達もバスティアニーニを暖かく励まし支援した。

写真上:ラヴェンナのアリギェーリ劇場 イタリアのオペラ劇場は歴史ある建造物が多いが、日本に比べると小さく、ラヴェンナは地方の劇場の中でも随分と小さい。歌手にとって歌いやすい環境だと想像できる。だからといって新進歌手達だけの出演劇場ではない。マリア・カラスも1954年5月23、26日に同劇場で『運命の力』をマリオ・デル・モナコ、アルド・プロッティと共に出演している。小さい分、まじかで歌手を見、声が聴けとても鑑賞しやすい。

バリトン歌手デヴューから不世出の大歌手へ

アンマナーティ夫妻は彼を親身に支え続けていたが、バリトンへの声域変更のニュースにはやや狼狽したようだった。彼が夫妻の所で勉強し始めた時、声域のチェックを行いバスであったという記述がシエナのヌオヴァイッマジネ出版社「ETTORE BASTIANINI」、カンタガッリ出版社のアントーニオ・マッツェオ著の「ETTORE BASTIANINI BASSO:STRALCI・・・」にあることからその困惑が窺える。しかしその後も終生バスティアニーニを応援した。

1952年1月にシエナ市庁舎内にあるリンノヴァーティ劇場から『椿姫』でバリトンデビューを果たす。稽古をつけ指揮をしたのはフラミーニオ・コンティーニ夫妻だった。2幕の出番ではバスティアニーニは舞台の袖で硬くなっていたが、ヴィオレッタに問いかける台詞の第一声で、もうバリトン歌手が誕生した。夏の数ヶ月はシエナや他のオペラツアーに加わり研鑚を積む。秋にはRAIトリノで『死せる貧者のためのレクイエム』に出演し、ボローニャではヴィルジニア・ゼアーニと共演しジェルモンを歌う。徐々に彼の美声は注目されるようになり、フィレンツェのテアトロ・コムナーレで指揮者アルトゥール・ロジンスキー、演出タティアーナ・パヴロヴァに認められチャイコフスキー『スペードの女王』のエレッキーに抜擢された。1952年12月26日だった。バリトン歌手を目指し半年間を勉強に費やし30歳の年末を18歳の頃通っていたこの劇場でバリトンとして成功し注目を得られたのだった。幸運にもバスティアニーニの最も古い(若い)録音が今もCDで聴く事ができる。第2幕のアリアは見事で、安定した美声と歌唱力である。この公演以前に彼は既に多くの指揮者や劇場側から注目されていた。

シエナのリンノヴァーティ劇場 写真左:シエナのリンノヴァーティ劇場 かなり小さな劇場で、現在プラテーア(平土間)と4層のパルコ席も含めて550席だが、数百年の歴史があり内部は立派で且つ華麗さがある。

1953年から大歌手に変貌を遂げる片鱗を見せ出す。プッチーニ『外套』をハンブルク、ラジオ放送用に録音する。まるで以前から大バリトン歌手のように朗々と美声が鳴り、しかも恐ろしい程に初老のしかしまだ力も残っている凄みと、妻の気持ちが離れていった悲哀まで表わした。1月末からはマリア・カラスと、もうフィレンツェで『ランメルムーアのルチーア』でエンリーコを歌う。5月には当時話題となったプロコフィエフのヨーロッパ初演『戦争と平和』でアンドレイを歌い、バリトン歌手として成功の道を一歩ずつ登り始めた。バスであった1950年頃、フィレンツェのオペラ研修センターに通っていたフランコ・コレッリと共演する。同じ建物に下宿していて顔だけは合わせていたこのテノールもこの公演で大テノールとなる片鱗を見せ、二人は共に大歌手となり大舞台で共演を続けることになる。12月にはスカラ座と並び賞される世界的大歌劇場ニューヨーク・メトロポリタン歌劇場にリャード・タッカーらと共演の『椿姫』ジェルモンでデヴューする。

(写真1953年『戦争と平和』)

1954年1月からもメトロポリタン歌劇場から始まりイタリア各地の主要歌劇場や各地の野外劇場、フランス等でバリトンのレパートリーを積み上げていく。コモでは『真珠採り』、トリエステで『タイース』、ジョノヴァでは『アマールと夜の訪問者』に出演する。これらの演目などから推測できるが随分各地の劇場も意欲的であったようだ。『タイース』は現在CD化で彼の若々しく情熱的な恋に溺れていく修道士の役になりきった声が聴ける。 (写真右1954年トリエステにて『タイース』) 5月にはオペラ歌手として誰でも夢であるミラノ・スカラ座に主役級歌手でデヴューする。3度目のロジンスキー指揮の下でのロシアオペラのチャイコフスキー『エウゲニー・オネーギン』のタイトルロールで、レナータ・テバルディのタチアーナだった。大戦後、47、8年頃からオペラ界に優秀な人材が涌き出るようにデヴューを果たす奇跡の歌手陣にバスティアニーニも仲間入りをしていった。既にジュゼッペ・ディ・ステファノ、ジュリエッタ・シミオナートとは初共演を済ませていた。更にカルロ・ベルゴンツィ、マリオ・デル・モナコとも共演する。大役『エウゲニー・オネーギン』のタイトルロールを10、13、15、18日の出演で歌い、すぐ翌6月6日にはフィレンツェのテアトロ・コムナーレでまたロシア物のチャイコフスキー『マゼッパ』をマグダ・オリヴェロと共に歌う。順調にキャリアを積む中で『アイーダ』のスタジオ録音も行った。

1955年も多忙で充実の年となる。アメリカ各地、メキシコ、ローマ、ナポリと活躍する。オペラ全曲録音も『運命の力』『ラ・ファヴォリータ』を入れる。この年後世に語り継げられる名舞台がライヴで残された。5月のスカラ座でのマリア・カラス、ジュゼッペ・ディ・ステファノ、カルロ・マリア・ジュリーニ指揮、ルキーノ・ヴィスコンティ演出の『椿姫』である。50年経過していても主役3人の輝くばかりの声と歌唱とスター性は不滅であるとしかいいようがなく、何十年聴いていても飽きない。それにしてもバスティアニーニは32歳であるのに、なんと安定した音楽と品格を作り上げていたことかと感心する。 (写真1955年スカラ座『椿姫』) 10月、11月のシカゴではまさに夢の饗宴である。『清教徒』がマリア・カラス、ジュゼッペ・ディ・ステファノで『イル・トロヴァトーレ』もマリア・カラス、ユッシ・ビョルリンクで上演されていた。筆者はバスティアニーニファンであるアメリカ人からの手紙を何通か頂いていたが、このふたつの舞台を見ていられた。生涯忘れられない熱気ある公演で興奮したとあった。11月、12月のメトロポリタン歌劇場では『アイーダ』テバルディと、『アンドレア・シェニエ』をジンカ・ミラノフと共演している。この年は12月29日フィレンツェの『外套』で締めくくっている。

1956年はフィレンツェ『ラ・ジョコンダ』から始まり1月はスカラ座で前年、話題となった『椿姫』の再演をマリア・カラス、ジャンニ・ライモンディ共演で7回歌う。2月、3月をメトロポリタンで4演目7回と1ガラコンサート行い、4、5月はスカラ座で『仮面舞踏会』7回出演し、5、6月はフィレンツェで『椿姫』をテバルディと共に6回と『ドン・カルロ』を3回歌う。7月はローマのカラカラで『椿姫』を4回、ヴェローナの野外歌劇場で『セヴィリアの理髪師』を4回歌う。8月に『セヴィリアの理髪師』のスタジオ全曲盤録音を入れ、更にナポリの野外劇場で同月と9月1日にこのオペラを合わせて4回歌っている。そのまま9月はスペインで2演目歌い、10月にメキシコで4演目歌う。同月23日からシカゴで11月16日まで4演目7回と1ガラコンサートに出演する。11月にボローニャで『セヴィリアの理髪師』を3回、12月はナポリで『ファウスト』を3回と『セヴィリアの理髪師』を5回歌う。

1957年は更に多忙となる。前年同様、アメリカ各地とメトロポリタン、イタリアの主要歌劇場とスペイン、メキシコでも歌う。1月はフィレンツェとニューヨーク、2月はニューヨークとフィラデルフィア、3月も同様、4月はボルティモア、ボストン、クリーヴランド、リッチモンドで、5月はアトランタ、ダラスでオペラ出演し、5月にRAI放送でテレビ用収録の『イル・トロヴァトーレ』を行う。これはバスティアニーニの動く映像としては最も古い(若い)姿である。マリオ・デル・モナコ、フェードラ・バルビエーリ、レイラ・ジェンチェルの共演で、舞台映像とは違ってアップの映像から演技をするバスティアニーニを見ることができ貴重である。6月はフィレンツェで『エルナーニ』をマリオ・デル・モナコ、ボリス・クリストフ共演で4回、7月はナポリ野外劇場で『ラ・ジョコンダ』を4回歌い、8月1日から20日まで9回に亘って『カルメン』と『ラ・ボエーム』をヴェローナの野外劇場で歌う。ふたつの演目でフェードラ・バルビエーリ、フランコ・コレッリ、アントニエッタ・ステッラ、レナータ・テバルディ、ジュゼッペ・ディ・ステファノ、ジャンニ・ポッジなどが交叉するようにして共演し、オペラ黄金期だったことが見て取れる。


(写真上1957年フィレンツェ、テアトロ・コムナーレ『エルナーニ』)

更に恐らくこの夏の期間中に『カヴァレリア・ルスティアカーナ』『ラ・ジョコンダ』『アンドレア・ショニエ』の全曲スタジオ録音も行った。もはやバスティアニーニはイタリアとアメリカそして各地で不動の地位を築いた。9月はビルバオで4公演、10月はメキシコの2都市で2演目と3演目を歌う。11月にトリエステで4回出演し12月をスカラで迎える。54年からスカラ座出演が続いたが12月7日のスカラ座オペラシーズン開幕を『仮面舞踏会』のレナートで飾る。共演はマリア・カラス、ジュゼッペ・ディ・ステファノであった。この公演から多忙さには更に拍車がかかる。12月7・10・15・19日にスカラ座で『仮面舞踏会』を、1958年1月4・7・9日は同スカラ座で『アドリアーナ・ルクヴルール』に出演し、12日にまた『仮面舞踏会』に出演している。この日はバスティアニーニには殆どないことだが第3幕で急病のため代役と交代している。しかし記録から見るとパルマで14日『カルメン』に出演し15日を『アドリアーナ・ルクヴルール』に出演し16・19日にまたパルマで『カルメン』に出演している。

1958年のバスティアニーニ、輝かしき年・生涯の凝縮年1958年のバスティアニーニ、輝かしき年・生涯の凝縮年 ""

この年は公演回数がバスティアニーニの生涯最多記録になる。スカラ座だけで『仮面舞踏会』1回(内4回が前述の12月)『アドリアーナ・ルクヴルール』4回『愛の妙薬』5回『海賊』5回『ナブッコ』8回『ヘラクレス』4回に出演する。イタリア各地の主要歌劇場はもとよりブリュッセル、アウグスブルク、ビルバオ、シカゴ、南アメリカの劇場でも彼のスカルピア、アモナズロ、レナート、カルロ王(『エルナーニ』)、フィガロ、ジェラール、ジェルモンなどの役柄から、優雅・威厳・快活な舞台姿と歌唱で観客の心を捉えた。今までエジプト、スペイン、アメリカ、メキシコ、フランスそして回数は少ないがドイツで出演をしてきたが、初めてスイスのチューリッヒ市立歌劇場にデヴューする。この劇場はウィーン国立歌劇場のような広さを持たないが、歌手にとっては演じやすい劇場である。今でもオペラ愛好者に愛されていてまた大歌手の公演が多い。この年の活躍で加筆すべきは7月26日、8月2・13・20・27日ザルツブルク・フェスティヴァルでヘルベルト・フォン・カラヤンとの歴史に残る名舞台となった『ドン・カルロ』に出演する。バスティアニーニのオーストリアデヴューはオペラを愛するこの国の聴衆に支持され、以後1964年まで驚くべき程の回数で出演することになる。またカラヤンとの共演も増し、他の大歌手と共に文字通り、世界にイタリアオペラ黄金期を作り上げたうちの重要なバリトン役を担って活躍し人気を得ていた。 バスティアニーニがもし、せめて60、70歳まで生きていてくれたとして、いや44歳の時、自らの生涯を振り返るとするとどの年を真っ先に思い出していただろうか。多くのバリトンレパートリーを大劇場で歌い喝采を受け、そのことに安住するのではなく、役作りや歌唱表現とよりよい声を探求していたことは、これらのキャリアから炸裂しそうなほど伝わってくる。彼にとっては一番にオペラ歌手としての大成が幸せであり、充実感ではなかっただろうか。そう考えると1958年はオペラ歌手としてのキャリアの真っ只中にいた。しかもこの年は不思議なくらい、彼の身辺にプライヴェートなことがらがやってきた。キャリアと彼の人生において忘れられない局面が展開した。

(写真上1958年ナポリ、サン・カルロ歌劇場「運命の力」)

バスティアニーニは前述のようにまだバス歌手としてはオペラ全曲公演の舞台出演をしていなかった時に、正式結婚をしないまま息子を儲けていた。その後も結婚をしていなかったが、彼の周囲に女性がいなかったわけではなかった。多くの人が語ったところから彼は女性に人気があり、彼も女性と交際した形跡もあった。しかし無節操な交際のし方ではないことと、真に愛した女性は少なかったとマリーナ・ボアーニョの本で繰り返し語られている。ファンや男性歌手にも女性歌手に対しても、バスティアニーニは紳士のように接し、度を越した付き合い方は決して無かったと書かれている。

また筆者が聴取した歌手、知人、ファンからも本に書かれているのと同様に、口数が少なく、礼儀正しくさっぱりとした接し方であったことが一致している。

マヌエーラという女性との巡り会い

この年、オペラ歌手としてまさに頂点に辿りついたかのような1958年の前年1957年12月のスカラ座で『仮面舞踏会』の公演中か、一段落する19日以降かもしれない。翌年1月4日から開く『アドリアーナ・ルクヴルール』の稽古中だった。第3幕の「パリスの神殿」シーンでは貝の口が開いてヴィーナスが登場するのだが、そのヴィーナス役にマヌエーラが選ばれていた。彼女は17歳を目前に控えていたが、まだ16歳だった。

研究会ではマヌエーラさんから直接お話しをお伺いしている。この時バスティアニーニはマヌエーラさんの登場からずっと彼女を見つめていた。彼女がヴィーナス役の衣装を身に付けていない装いの時、始めわからなかったようだが、すぐに気付きまたじっと見つめていたそうだ。その後の交際から別れ、そして同じ建物に住んだ中でバスティアニーニとの僅かな機会に姿を見た思い出、バスティアニーニの最期を看取り、シエナの友人達が駈け付けた時の言動などを話して頂いている。

キャリアの頂点に近づくこの年の初めにマヌエーラと彼にとっては真実の恋の予感があったのだった。彼女を見つめながらともかく声をかけることができるようになって、マヌエーラがどのような家庭のお嬢さんかがわかる。一般の庶民レベルのお嬢さんではなかった。彼女の両親は地方の富豪で名士でもあった。マヌエーラがバレエに情熱を込めている姿を認めていたので、スカラ座に近い所にマヌエーラの母の友人をマヌエーラのお目付け役の意味を込めて二人で住まわせていた。だからバスティアニーニが交際するのには、かなり面倒な手筈を踏まなければならなかった。しかしバスティアニーニは彼女とデイトに成功する。二人には年齢差があり、しかも良家のお嬢様で堅苦しそうな両親が居て、交際を維持するにはバックに多くの困難が存在するだろうと彼は予測していただろう。

マヌエーラさんが私達に話してくれた事から彼の彼女に対する真剣さが窺える。彼はマヌエーラを乗せてドライヴに成功する。そこで彼女に身の上話しをし始め、実は・・・息子が居ると言った。彼に取っては重要なことでぜひ、彼女に聞いておいて貰わなければならないことだった。だがマヌエーラは驚き、「えっ、結婚しているのですか、それなら、もう帰ります」と車を降りようとした。バスティアニーニは急いで彼女を引き留め、急いで話しの続きをした。自分の家庭のことや、息子イアーゴの養育状況などを話す。

その後はマヌエーラの両親とお目付け役にも少しずつ受け入れられ、恋人同士の幸せな期間に入る。

筆者は二人の付き添役だった女性の写真を見せていただいた。ボアーニョの本の記載ではこの女性の年齢はわからず、勝手な想像で少し年配のイメージを持っていた。実際はこの当時、50歳を少し過ぎた方で立派なしかも身なりの良い方だった。2000年頃に90歳か、90数歳で亡くなられた。意外だったがバスティアニーニの親友のジャンニーニ氏は、いくら親友でもバスティアニーニは全てのことを私に語ってくれた訳ではないので、彼について知らないこともたくさんあった。マヌエーラさんのことはかなりの期間、知らなかったと筆者に話して下さった。

1月22日のコモで『アンドレア・シェニエ』に出演、1月25・26日をナポリのサン・カルロ歌劇場で『カルメン』、2月と3月も同劇場でレオンカヴァッロの『ラ・ボエーム』『運命の力』『トスカ』に出演する。レオンカヴァッロの『ラ・ボエーム』とプッチーニの『トスカ』は彼にとって初レパートリーである。4月、5月はスカラ座で『愛の妙薬』『海賊』『ナブッコ』を歌っている。この時のスカラ座の3演目もバスティアニーニ初のバリトンレパートリーである。初めての役をこれほど多くこなしていても、きっとスカラ座公演だったからマヌエーラと楽しいひとときを過ごせたであろう。マヌエーラさんは『海賊』のエルネストの舞台を見ていて、とても素晴らしく彼に向いていた、と言われていた。ベッリーニ『清教徒』も1955年10月シカゴでマリア・カラス、ジュゼッペ・ディ・ステファノ共演で観衆を熱狂させていた。残念ながらバスティアニーニのベッリーニオペラが音源で残っていない。マリア・カラスとフランコ・コレッリにとっても残念なことだった。バスティアニーニのベッリーニは彼の美声と旋律美に乗った様式感溢れる歌唱美が遺憾なく発揮されたことだろう。幸いドニゼッティの『ランメルムーアのルチーア』『ラ・ファヴォリータ』『ポリウート』で彼の録音が残されているので、ベッリーニとはまた違う様式と旋律美のオペラであるが、ベッリーニのバスティアニーニの歌唱が私達には想像が出来そうだ。6月はチューリッヒ市立歌劇場で『イル・トロヴァトーレ』『椿姫』に出演し、ブリュッセルでスカラ座ツアー公演に参加し『トスカ』をテバルディと共に出演する。彼唯一残ったスカルピアのライヴ録音である。7月はアウグスブルクで1公演、エンナで1公演、ナポリのアレーナで10・13日に『カルメン』を、26日にザルツブルク・フェスティヴァルでカラヤンとの歴史的公演『ドン・カルロ』に高貴で悲壮なロドリーゴを演じている。30日はヴェローナのアレーナで『ラ・ファヴォリータ』に出演し、8月2日にザルツブルクへ、そして7・10日にまたヴェローナへ、13日ザルツブルクへ、16日にヴェローナ、そして20・27日にザルツブルクでロドリーゴを歌い2劇場往復を終える。

パンテーラのカピターノ(パリオ行事の隊長)への道

シエナの年間行事で最も重要でコントラーダの住民が血眼で絶叫するパリオは7月2日と8月16日が本番だが、この両日の前から関連する行事がある。出場できるコントラーダや馬の籤引き、騎手選び等、またコントラーダの住民達は連日集まって食事会で気勢を上げ、自チームを誇示する為に街中を大勢で衣装をつけ小太鼓を鳴らし歌い行進する。とにかくパリオはお祭りだが殺気立っている。ヌオーヴァ・イッマージネ社の『ETTORE BASTIANINI』の記載で7月のパリオの数日前にカンポ広場でジャンニーニはバスティアニーニにパリオのカピターノの役職を引き受けてくれないかと依頼し、カピターノに選出され、バスティアニーニがパンテーラに多くの貢献をする過程が書かれている。正確な日付はわからないがバスティアニーニはこのようなハードスケジュールの中、カンポ広場でジャンニーニと会っている。恐らくアウグスブルク、エンナ公演前だったのかもしれない。ジャンニーニはバスティアニーニが若い頃からオペラのためとはいえ、シエナを空けていたのでコントラーダの人々と疎遠になることを心配していた。またバスティアニーニが世界で知られる大歌手になった今、カピターノ職に就いてパンテーラのために経済的な援助もできると考えていた。筆者は彼の中にパンテーラが経済的に貢献が得られる可能性も視野にあっただろうが、バスティアニーニがコントラーダと密接な繋がりを持てる足がかりを提供し、バスティアニーニが大歌手だけでなく、コントラーダの誉れとなる人物にもしてあげたかったのではなかっただろうか、とジャンニーニさんと話した時の表情を思い浮かべてこのように思いを馳せる。幼い頃からバスティアニーニと仲良く遊んでいたジャンニーニは、バスティアニーニがバス歌手になりエジプトツアーで活躍する頃から、もっと大成したらカピターノになってもらおうと内心決めていた。バスティアニーニはパリオのカピターノのような威厳のある重要な職を、そんなに簡単に人々は決められないだろうし、第一世界中の劇場に出演している今、パリオで決められた行事や用事に全て合わせて戻ってくることは出来ない。とても遂行できない。と断る。しかしなんとかこの次、ヨーロッパとアメリカの劇場出演が終わってから、その問題の話をしよう、ということになった。そして約束通り11月に戻る頃、バスティアニーニはジャンニーニから電話でオペラの仕事などと重なっている時は、理解してあげようと地区の人々の了解が整っていることを伝えた。安心してシエナに戻ったバスティアニーニは立候補することを受諾した。翌1959年には満場一致の拍手でカピターノに迎えられた。バスティアニーニは多忙の中、できるだけシエナに戻ってはパリオとコントラーダのために働いていた。バスティアニーニを語る人が殆ど口にする、時間通りにやってきて、そして様々な問題や必要なことを職務に成り切ってやり遂げていた。パリオでは勝利を目指し、コントラーダの人々と一丸となって行動し、友人達と密接な関係を更に築くようになる。バスティアニーニが幼い頃から親しんだコントラーダとパリオに彼自身がそれらの中心となり、尊敬される立場に就いたのだった。オペラ歌手として世界の主要歌劇場で活躍するようになり、しかも人気のある歌手になった。そのうえ自分の出身地の歴史ある行事に参画できる地位に就き、コントラーダの人々といつも笑顔で迎えられ接することができるようになったのだ。彼にとって心から嬉しく充実感を覚えたことだろう。良かったね、と私達も共に微笑んでしまう。

許せなかった人に別れを告げる

ハードスケジュールの中、シエナでパンテーラのカピターノに就く依頼の件で、バスティアニーニにとって精神の高揚感・責任感を抱いた年であったことと思われる。この年、更にもうひとつ強い印象に残る出来事があった。

残念ながらバスティアニーニについての既刊伝記ではいずれにおいても記載がなかったことについて少し触れてみる。研究会ではジャンニーニさんから話して頂いたが、しかし彼もことの全てを見聞していたわけではなかった。

1958年頃までにはバスティアニーニの名がシエナの人かイタリア人であれば、知れ渡っていたかどうかは筆者にはわからない。何故ならイタリア人は意外にオペラを知らない人が多いことはイタリア人と接してきた経験で痛感している。だが1958年バスティアニーニが大歌手になったことで、バスティアニーニの父であると名乗り出た人があった。その男性が新聞かラジオでバスティアニーニのことを知ったか、シエナで以前から名前を知っていて名乗り出たのかどうか、わからない。そしてこの男性とどこでどのようにして会話したのかはわからないが、たぶんバスティアニーニがシエナに滞在できた期間、すなわちカピターノの話しが出た頃ではなかっただろうかと推測している。

バスティアニーニは今の私にはもう父親は要らない。と、その人を受け入れず、ジャンニーニさんの表現ではバスティアニーニはもう父親を彼の心の中では切り捨てた、と言われた。その人がシエナの人かどうかは知らない。ということだった。筆者がジャンニーニさんに初めてお会いした時は1993年で、温厚な面立ちの中にもプリオーレだった頃の指導者らしい矍鑠としたバイタリティさを感じたが、この時2000年12月27日だった。かなりお年を召されていたのでひょっとして記憶に少し欠けたことがあったかもしれなかったが、この上なく貴重なお話しをして頂けた。翌2001年春に惜しまれながらジャンニーニさんは亡くなられた。彼の人生にも暫し思いを馳せた。

バスティアニーニの幼少期に父親が傍に居なくて寂しく不安な時を過ごしたことを想う。しかしガエターノ・ヴァンニ、アンマナーティ夫妻など多くの人々がバスティアニーニの才能を開花させ育てた。そしてジャンニーニさんなど多くの人の友情で支えられたことを、バスティアニーニは熱い感謝の念を終生持っていたようだった。父親は今からなどもう要らない、と言いきった気持ちを考えたいと思う。ヌオーヴァ・イッマージネ社リッツァカーサ著の「ETTORE BASTIANINI」の本からも子供時代から青年期移行時まで、寂しさや愛情をコントラーダやパンテーラの行事にぶつけていったことが書かれている。彼の多くの周りの人々とパンテーラが、ある面で父親の代わりであったのかもしれなかった。しかし人々は各家庭に帰ってしまう。父を必要とした期間の苦しんだ歳月を思うと、1958年強く決断した彼のきりきりと疼く心の深淵を思う。しかし重要なことはどのような状況で生まれようが、バスティアニーニのせいではない。人は生まれる時に時代も国も親も選べない。生まれてから全ての人々は平等であるべきという人権と意識を持って生きるのである。人権と意識は法の整備によって確立されるべきであるが。バスティアニーニはこのことを嫌と言うほど噛み締めて、闘って、自分自身を見失わず、才能を努力で開花させ新たな人生を生き抜いたのだった。

さて、人生の重要な局面が続けて展開した1958年の9月からスペインで4演目を歌う。遠く離れてしまうのでマヌエーラに手紙や電報で彼女への愛を伝えている。9月15日にウイーンで4演目を歌い、23・26・30日と10月3日写真で目にするビルギット・ニルソン共演の『仮面舞踏会』に出演する。ローマで『ボエーム』のスタジオ全曲録音を行い、その後南アメリカ(どこかわからないが)で1演目に出演し、10月メキシコで6演目を歌う。同月10月20・24・29日と11月5・8・14日にシカゴで2演目を歌い、11月29日にナポリで『アンドレア・シェニエ』に出演している。ジャンニーニとカピターノ立候補についての話し合いを続ける為にシエナに戻ったのは、この公演前であったのかもしれない。12月3・7・10日を同劇場の同オペラに出演し、またメキシコで3演目を歌う。そして12月29日はスカラ座で『ヘラクレス』のリーカ役にシュワルツコップ、フランコ・コレッリ、ジェローム・ハインズ、フェードラ・バルビエーリと歌っている。この役は初レパートリーである。バスティアニーニ35歳と36歳の多くのことが起こった一年であり、新たに6オペラのレパートリーも加えて約86回の公演をこなした年であった。

更に大バリトンとして・1959年から1961年

(写真右上スカラ座「外套」)

1959年はスカラ座で1月1日と5・7日に『ヘラクレス』に出演し、10日から『ボエーム』を1月中に合計6回歌い、この公演は2月、4月、7月と断続的に公演される。この間のバスティアニーニのスケジュールを日毎に追ってみる。2月3日ウィーンで『椿姫』、14・19日がスカラ座公演、20日はリスボンで『イル・トロヴァトーレ』、22日はスカラ座に戻って歌う。25と28日はスカラ座だが『エルナーニ』をフランコ・コッレッリと共に歌う。3月の日付はわからないがリスボンで『ランメルムーアのルチーア』に出演し、8・11日はスカラ座で『エルナーニ』を15日はザグレブで『アンドレア・シェニエ』に。バスティアニーニが歌う「国を裏切る者」の後、拍手が鳴り止まず中断したという伝説的な公演を行った。23日にリスボンで『イル・トロヴァトーレ』を歌い、取りあえず一息つく。4月12日はスカラ座で『エルナーニ』を、14・17日がスカラ座で『外套』を、19日が『エルナーニ』で21日が『外套』、22・25日が『ラ・ボエーム』で27日が『外套』である。少し休みが取れて5月11日にスカラ座で『イル・トロヴァトーレ』に出演し、6月5日ウイーンで『仮面舞踏会』を歌い29日まで5回5演目に出演し、23日にスカラ座ガラコンサート出演する。7月はフィレンツェで8・10・12・14日に『ナブッコ』を歌い、16日にスカラ座で残り1回の『ラ・ボエーム』に出演し、21・23日もスカラ座で『カルメン』を、26・28日はヴェローナのアレーナで『イル・トロヴァトーレ』に出演する。8月13・16・19ナポリのアレーナで『道化師』に出演する。束の間の空いた日をマヌエーラやパンテーラの用事とパリオ行事のために、また彼の母や息子イアーゴと、そしてシエナの友人たちとも過ごしたであろう。7月2日のパリオ前後はシエナに行けただろうが、8月16日前後はナポリの舞台があって無理であっただろう。9月からビルバオで2公演、9月15日からウィーンでは5演目7公演行う。10月10日ベルガモでデータはわからないが3公演行う。10月からウイーンで3演目4回出演し、11月6・9日にダラスで『ランメルムーアのルチーア』をマリア・カラスと歌っている。12日もダラスで1公演行い、28日にナポリで『アドリアーナ・ルクヴルール』を12月1・6・9日にマグダ・オリヴェーロ、フランコ・コレッリ、ジュリエッタ・シミオナートと共に出演する。12月13・16・20日は『タイース』公演を行っている。1954年2月のトリエステ公演から5年半ぶりである。1954年はまさにアタナエルそのものの若さと恋心溢れる歌唱だったが、更に円熟味を増した歌唱と舞台姿であったことだろう。12月26・29日はローマで『仮面舞踏会』でこの年を終える。1958年からウィーンと密接な繋がりを持ちこの年も多く出演したが翌年から更に多数回出演となり、バスティアニーニのオーストリア人気は絶大になる。

1960年1月3日はローマで前年の演目『仮面舞踏会』を歌い、8・11・15・17・20日はスカラ座で『アンドレア・シェニエ』に出演する。2月1日から4月6日までメトロポリタン歌劇場で3演目10回出演する。4月19日から5月19日までスカラ座で『仮面舞踏会』8公演を歌う。5月22日から6月27日までウィーンで8演目16公演に出演し、『アイーダ』『トスカ』の一回ずつをヘルベルト・フォン・カラヤンが振る。他には『ラ・ボエーム』『仮面舞踏会』『カルメン』『ドン・カルロ』『アンドレア・シェニエ』『リゴレット』だったが、この劇場では実に多彩な顔ぶれの上演で繰り広げられていた。ここで挙げるのはほんの1ヶ月間の一例だがアンドレ・クリュイタンス、ロブロ・フォン・マタチッチ、フランチェスコ・モリナーリ・プラデッリらの指揮で、ビルギット・ニルソン、クリスタ・ルードヴィッヒ、ヒルデ・ギューデン、レオニー・リザネク、ワルター・ベリー、レオンタイン・プライス、フランコ・コレッリ、ジュゼッペ・ディ・ステファノ、フラヴィアーノ・ラボー、レナータ・テバルディ、ジュリエッタ・シミオナート達の饗宴だった。このように1958年、1959年に続いて1960年もウィーン出演が組み込まれていく。ウィーン公演の間に5月29日にハンブルクでコンサートを行う。7月にフィレンツェでスタジオ全曲録音『リゴレット』とスカラ座で『仮面舞踏会』の録音を行う。7月24・28日、8月2・11・15日をヴェローナのアレーナで『道化師』のトニオを歌い8月15日は『カヴァレリア・ルスティアカーナ』のアルフィオも歌っている。この間ザルツブルク・フェスティヴァルで新装なった新祝祭歌劇場で『ドン・カルロ』に8月1・9・14・22日に出演する。見てわかるようにヴェローナとザルツブルクを交互に往復して出演している。バスティアニーニはポルシェで往復していたのだろう。疲れもあっただろう。しかしザルツブルクの『ドン・カルロ』のロドリーゴはヴェルディ音楽とロドリーゴ人物像の全てをバスティアニーニは出しきっている。登場から死の場面まで彼の声と表現は若い高潔な人物像を朗々と、時に激しく正義感が炸裂し、時に切ない程王子をサポートし、あなたのために死んでいくのです、と歌う。ロドリーゴのバスティアニーニかバスティアニーニがロドリーゴかと感じさせる。その後9月7日のウィーンの舞台までほんの僅かだったが少し休息を得られただろうか。9月は7・9・12・13・15・16・18・23・27・30日、10月2・4・7・12・15・19日までをウイーンで7演目を歌う。うち1公演をヘルベルト・フォン・カラヤンが振っている。この頃のバスティアニーニには珍しく11月27日のナポリの『エルナーニ』出演まで一ヶ月以上舞台出演がないが、次の予定を見るとすぐにわかる。11月30日と12月4日にナポリの『エルナーニ』に出演して12月7日にスカラ座シーズン開幕日を『ポリウート』のセヴェーロで飾る。たぶん11月はセヴェーロ役をマスターしていたのであろう。1958年スカラ座でマリア・カラス、フランコ・コレッリと共に『海賊』も復活上演だったが、この演目も三大人気歌手の復活上演でいやがうえにも話題となり人気を呼んだ。当時マリア・カラスはメネギーニと別れオナシスと暮らしていた時の人であった。オペラから少し遠ざかっていてしかもスカラ座とは良い関係ではなかったので、久しぶりにスカラに戻ったことで大変注目されていた。当時の『ポリウート』の批評はカラスの歌唱は概ね良く評価された。中でもバスティアニーニは様式感のあるレガート唱法と美しい音色が秀逸である、という批評があった。実際、絶頂期のカラス独特の魅力に溢れた音量と金色で厚みのある音色、聞くだけで悩殺されそうになる声の色気と歌でドラマを体現する迫真力は、『ポリウート』でも時にあったが、全体では少し覇気がなく薄められたと言う印象を筆者は感じた。バスティアニーニは力強く朗々としかも抑揚を持ちながらレガート唱法で、威厳のあるゼヴェーロと妻の愛に悩む個人のセヴェーロをドニゼッティオペラの音楽美でよく表現していた。声量と音色、緊迫したドラマの旋律に乗りながら多くの感情を表現した。12月7日のあとは10・14・18・21・29日を『ポリウート』、同じスカラ座で12月13・19・28日は『ドン・カルロ』を歌っている。12月から翌年の5月9日まで、間にマイアミ、パレルモやトリノなどの公演を挟みながら殆どをミラノで仕事をする。

(写真右上「ポリウート」の打ち合わせ)

1961年1月は1・4・8・19日を『ドン・カルロ』、15日は『ポリウート』、10・12・14・17日を『運命の力』を歌って、23日にはマイアミで4公演行っている。2月16日はパレルモで『ナブッコ』4公演に出演する。3月はスカラ座で15・18・22・26日『清教徒』をレナータ・スコットと歌っている。3月27日『運命の力』で小休止を得る。4月6日『清教徒』、12日『ドン・カルロ』を、14・17日は『ランメルムーアのルチーア』を、18日は『清教徒』を歌い、20日『ランメルムーアのルチーア』、25日『運命の力』、そして27日『ランメルムーアのルチーア』でスカラ座シーズンオペラ出演を終える。ルチーアを歌うのはサザーランドである。間に24日にトリノで『ドン・カルロ』を放送録音で歌い、スカラ座の一連のオペラ出演を終えた翌日4月28日からトリノで『仮面舞踏会』を28・30日と5月2日に歌う。5月9日にスカラ座でガラコンサートを終えて今度はウィーンの仕事が始まる。

この頃のイタリアの新聞にバスティアニーニの多忙さ、すなわちオペラ歌手、パンテーラのカピターノとして各地を飛び回りながら活躍している様子の記事がある。1961年3月2日の日付である。どれだけ忙しくて多くのオペラを歌ってもいつも全て素晴らしい、と書かれている。この新聞はマヌエーラさんが切り抜き大事に今日まで取って置いて下さったものだ。今筆者の手元にあるが彼女は幸せ一杯だったことがよくわかった。何故なら新聞記事にハートマークで縁取りがされていた。胸が一杯になった。

5月16日から6月27日までウィーンで7演目10公演に出演する。合間の6月19日からヴェネーツィアのフェニーチェ劇場で『アンドレア・シェニエ』3公演に出演している。<声と歌唱>で書いたが、日付はわからないが1961年前半ということだったデッカへの『オテッロ』録音時期は、たぶんこの頃であっただろうと考えられる。彼の疲労がデータからでも立ち現われてきそうだ。それでも素晴らしい舞台をこなし、次ぎに挙げる録音でも素晴らしいロドリーゴを音に残した。7月に『ドン・カルロ』全曲スタジオ録音を行う。録音データを見ると7月2・9、9月13・15日となっている。7月2日のパリオの日である。パリオはパリオ行事の時期だけに限らず、そしてレースに出場できない時でも多くの用事もある。彼は出来る時に精一杯パンテーラのカピターノとして空いた時間を使ったのだろう。2日のデータどおりにバスティアニーニ出番の部分が録音日であったかどうかはわからないが、バスティアニーニはこれら多忙な中を録音していたことがわかる。ヴェローナのアレーナで7月27日から全7公演の『カルメン』に出演する。最終日は8月15日である。パリオは16日が本レースだがプローヴァと言って試し走りをこの15日も行っている。約10日間置いて8月26・29日、9月1日はフィレンツェで『ナブッコ』を歌い、9月3日から25日までをウィーンに5演目9公演出演している。このうち『アイーダ』3公演のうち1回がヘルベルト・フォン・カラヤンである。10月1・3日はベルリンで『イル・トロヴァトーレ』を歌ってサンフランシスコに飛ぶ。3日にベルリンにいて6日にもうサンフランシスコのオペラハウスで『ナブッコ』を歌う。ゲネプロだってあっただろうに、本当にハードスケジュールである。身体を消耗させていると思えてしまう。『仮面舞踏会』『リゴレット』と全部で10月23日まで6公演行う。そして11月6日にロサンゼルスで『リゴレット』を歌い、11月16・18日ダラスで『ランメルムーアのルチーア』を歌う。この時サザーランドと歌っているが、サザーランドとは既に4月に同オペラでそして5月9日にもスカラ座でこのオペラ2幕のみをガラコンサートで共演している。ダラスではプラチド・ドミンゴがアルトゥーロで共演している。ドミンゴ執筆の自伝「PLACIDO DOMINGO My First Forty Years」の中に次のような思い出を語っている件がある。―ジョーンの技量にわたしは文字どおり圧倒された。また彼女たち夫婦の気さくさ、(サザーランドの夫リチャード・ボニングのこと)親切さがうれしかったものだ。主役テノールはレナート・チオーニで、わたしにとってもっと大事なことは、あのエットレ・バスティアニーニがエンリーコを歌ったことだ。彼はわたしが駆け出しのうちに他界してしまったので、同じ舞台に立ったのはこれが最初で最後だった。とにかくすばらしい声の持ち主で、天下一品のバリトンだった。―という記述がある。12月7日は前年と続いてスカラ座シリーズ開幕オープニングを飾る。フランコ・コレッリ、アントニエッタ・ステッラと共演する『レニャーノの戦い』に7・10・13・16・19・23・26・30日に出演する。今まで殆ど上演されていない演目で、コレッリと共に舞台稽古中のバスティアニーニの写真などを見ることが出来る。たぶんダラス公演終了後この演目の準備に入ったのだろう。

文 丸山幸子(MARUYAMA Sachiko)
1962年・苦悩の始まり<全盛期の締め括り>


前半

先に1958年という年がバスティアニーニにとってはバリトン歌手として絶頂期に到達し、大歌手として多忙を極め、更にプライヴェートな部分でも彼の人生で多くの重要な局面を迎えたことを書いた。それらは公の部分と合致するかのように、今後の人生が明るく開かれていくような出来事がやってきたのだった。しかし1962年はこれに反して生に相反する意味の死を予感させる病の恐怖が彼を襲う。更にプライヴェートの(私の)部分でも母の死を向かえる。咽喉の癌の診断が下ることイコール歌手生命の危機と終わりを表わす。徐々に恋人との別離への覚悟を固めていく。病名は幸せな生活への夢を打ち砕く。幸せな結婚生活への諦めは、一人で困難に立ち向かう悲壮な受忍への道の決意の出発となる。苦悩は彼の人生の終焉まで続く。

前年のスカラ座オープニング公演は12月中に全8公演を終え、1962年は1月28日まで8回『ファヴォリータ』をフィオレンツァ・コッソット、ジュリエッタ・シミオナート等と共に歌い、2月3・11と3月8日まで公演があった。この2月、3月のスカラ座公演の合間にロンドン、コヴント・ガーデンで『仮面舞踏会』を4回歌っている。オペラ公演の盛んなロンドンでのデビュー公演であり、またレナートはバスティアニーニの当たり役だから、いつものように彼はレナートに成りきって歌っている。後年よく指摘されるがロンドンのオペラ界はイタリア、アメリカ、ウィーンとは少しオペラキャストの好みが違うようだ。オペラファンの間でバスティアニーニへの火はつかなかったのだろうか。ロンドンは2月23・27日と3月2・5日だったが、その合間に2月25日は西ドイツのベルリンでコンサートにも出演している。

筆者はこの1962年の公演時、バスティアニーニとマヌエーラさんがロンドンの町を仲良く歩いている写真を見たことがあった。大変幸せなそうな笑顔だった。バスティアニーニの帽子とコート姿が余りにもダンディに決まっていて、今まで多くのバスティアニーニの写真と少ない映像から彼を見てきたが、それら以上に私にはまるで雲の上のような人に見えた。この格好いい人に、とてもじゃないが怖気づいて近寄ることなどできないという感情が溢れた。ロンドンでも彼は疲れていたはずだが、二人でいた時は幸せだったのだろう。

3月8日の『ファヴォリータ』最終公演を終え、15日はパレルモで『リゴレット』を歌う。ライヴ録音が残っていないが、セラフィン指揮で当時27歳前後のルチアーノ・パヴァロッティも歌っている。 ボアーニョの著書ではパレルモからバスティアニーニはマヌエーラに疲れている様子を書いた手紙が紹介されている。彼女への愛の言葉は少なく、疲労と心配事で頭は整理がつかないほどで何事も煩わしく思え、気力がなえ、ため息ばかりがでる心配事に覆われていると書かれている。今まで彼女には明るい言葉と優しい笑顔を向けていた彼が、母親の病気への心配と自身の心身の疲労と病気の兆しへの不安を思わず漠然だが伝えてしまったのだろう。彼はマヌエーラにこういう心境の自分を見せることはなかっただろうに、このような倦怠感をいとしい人に伝えてしまっている。現実には打ち明けてもどうにもならないが、このような気持ちを愛する人に少しでも支えてほしいとどこかで願っていたのではないか、支えまでいかなくてもこういう時もある状態を見てほしかったのかもしれないと私は考えてみた。 だが実際はやはり彼のため息が多すぎてつい書いてしまったのかもしれないと考えられる。バスティアニーニはこの時39歳だった。約18歳年下の恋人に自分の脱力感と憂慮に横溢された気持ちを理解されることは難しいとわかっていただろう。

そして4月10日のスカラ座での『リゴレット』公演を迎える。ブーイングを受けた公演だったと報じた新聞があった。音源が残っていないので実際はどうであったかはわからない。不調で全体を通してうまくいかなかったのかはわからない。が、当時の多くの批評を総合的に見ると、確かに2幕の重要なシーンで声が割れたが、大目に見る聴衆などいろいろあったらしく全体をとおしてずっと不調ではなかったことがわかる。彼は1952年にバリトン歌手になってから1955年の年、ただ1年のみ『リゴレット』を歌わなかっただけでずっとこの大役を毎年歌ってきた。筆者は彼がこの日、1日だけブーイングを受けたことくらい実際、他の歌手と比べると断じてたいしたことはないと考えている。今まで余りにも深い美声で、力強く、的確に、長いブレスで朗々と完璧に歌ってきたので、聴衆はそのような歌唱でない僅かな個所のバスティアニーニに驚き、不満の声をあげたのかもしれない。まだバリトン歌手になってそう、経過していなかった頃、各地の野外劇場でも歌った。ウィーンでは多数会歌っていたが、このタイトルロールは意外だがスカラ座では彼は初めて歌うことになった。聴衆から大変な期待と注目を集めていたのは確かだろう。 彼が大ブーイングを受けるほどであったかは別として、実際、声の異変が出ていたと考えられる。シエナにいる母が病気で彼はミラノからシエナを往復していた。それまでも公演地からシエナまでパリオの用事でも往復していた疲れもあった。前年1961年の5月か6月頃のカラヤンとの『オテッロ』での降板時、ジョン・カルショーが書いた様にひどく疲れた様子であったことは事実であっただろう。1961年12月7日のスカラ座オープニング公演『レニャーノの戦い』で、最愛の妻が書いた親友のアッリーゴに宛てた愛の手紙を入手し怒りを露にして歌うシーンがある。とても心情が表出し、迫力があったが最後の高音がかすれてしまい出ていなかったことが筆者は気になっていた。しかし観客は喜んで拍手を送っているようだった。同じ年の10月1日ベルリンでの『イル・トロヴァトーレ』の声は素晴らしく良い声であるが、2幕はなんだかいつもの“君の微笑み”ではない。幾つもある『イル・トロヴァトーレ』の音源からでも全くなかった歌唱だった。他の幕はいずれも熱気に満ちた歌唱で申し分ないのだが、バスティアニーニにしてはやや崩したアリアの作り方だったし、2幕はいつもより集中力を欠いたように感じていた。 バスティアニーニ本人は疲労を感じ、声の調子の異変を感じ出していたのではないだろうか。徐々に咽喉の異変を感じ、実際歌っている時に彼自身がひょとしたら1961年の秋頃には不安が過っていたのではないだろうか、と筆者は推測するようになった。

母との別れ母マリーアが5月3日に亡くなった。ボアーニョの本では1枚だけ写真掲載があったが、筆者はその写真と同じ頃の別の写真を孫ご一家から見せて貰った。大きな目と口元はバスティアニーニが母から譲り受けたことがわかる。母の死には落胆したことだろう、彼は一人っ子だったから母には彼が決めた事後承諾の話しでもなんでも全て受け入れてくれる温かさ、安心感を得ていたことだっただろう。その母のいなくなった寂寥の上に、疲労感が取れずなんとなくという程度であったかどうかわからないが、声の調子も悪いと感じ出していたかもしれない。5月の半ば頃まで、気持ちは塞いでいただろう。いやずっとそうだっただろうが、歌手としてそうもいかなかっただろう。なんとか気持ちの整理を行って5月21日からウィーンでの仕事に入った。 5月21・26日、6月15日は『ドン・カルロ』をフランチェスコ・モリナーリ・プラデッリ、レオニー・リザネック、セーナ・ユリナッチ、ジュリエッタ・シミオナート、ハンス・ホッターなどのイタリア・ウィーン勢混合チームで歌う。23日の『リゴレット』は4月10日の怨念を晴らしたような歌になったのではないだろうか。29日と6月13日は『仮面舞踏会』、30日『ラ・ボエーム』である。イタリアとウィーン陣営の錚錚たる歌手達の饗宴である。

咽喉の診察ボアーニョの本によるとこのウィーン滞在の5月頃に、咽頭炎治療をウィーンの音楽界で有名なそして多くの歌手達が信頼を寄せていた医者を訪ねていた。この時点ではまだ腫瘍とは言い切れなかった様だ。ハインツ・キュルステン教授は咽喉の専門医で、多くの歌手達を診ていた医師であり、また彼らと友人関係も築いていたようだった。この時はまだ明確に診断が下されていなかった。

1962年の前半公演で私達が聴くことのできる音源はロンドンの『仮面舞踏会』と次のトリノでのRAIアリアコンサートである。ところがこれらが素晴らしく、特にトリノコンサートはルチアーノ・ベッタリーニの指揮で大バリトン歌手であることを見せつけるような気合の入った歌唱である。1960年代から増してきた深く凄みを感じさせる響きと本来の伸びやかな美声とが合い混ざったスケールの大きい歌唱で圧倒している。 6月10日にウィーンで『アイーダ』を歌い、26日に再びトリノのコンサートである。咽頭の診断を受け、治療をどの様に行ったかはこの時期、不明だが、彼は咽喉の調子を常に意識していたのは当然であったはずだ。この音源は“アリア、歌曲その他”のページで触れている。さて1962年前半の音源は以上の様に充実した迫力ある歌唱を行っている。声も確かに1953、1954から1958、1959年頃のベルベットであり、ブロンズであり、甘く媚薬のような魅力とメリハリと深みのある声であったが、付け加えてこの年の彼の声はまた違った魅力もあった。1962年後半の公演で少なからぬライヴ盤が残されていてそれらから述べることにする。 1956年から1961年まで毎年続いたヴェローナ野外劇場出演はもうこの年から出演することはなくなった。この時期に諸々の用事により彼の意志で出演できなかったのか、または病気を不安に思って出演しなかったのかはわからない。またはパリオのイヴェントが入り、仕事を入れなかったのだろうか。

後半

違った声の魅力<加わった凄みのある声>

7月にスタジオ録音をスカラ座でふたつ行っている。『椿姫』と『イル・トロヴァトーレ』である。バスティアニーニはこの演目は頻繁に舞台で歌い、幸いライヴ録音盤にそれぞれ名盤があるが、前年のスカラ座での『ドン・カルロ』スタジオ録音盤と同様、大変意義がある。バスティアニーニのベストオペラ、ヴェルディバリトンと言わしめる、彼にしか歌えないオペラの世界を築いた芸術作品をスタジオで録音され残せたからである。他にも『リゴレット』『仮面舞踏会』『運命の力』『アイーダ』はライヴ盤と共にスタジオ盤が残されていたことは良かった。迫真のライヴ盤は勿論貴重な音源として聴けるが、1950年、1960年代当時、ライヴ盤は一般には販売されず、スタジオ録音された正規の盤でしか殆どの人々は楽しめなかったからである。長く正規の録音盤を基準にオペラ歌手を紹介していたし、多くのファンはそれらの録音盤でどれほどオペラを楽しみ、またバスティアニーニの歌声に魅了されてきたことかは計り知れない。<声と歌唱><ライヴ録音とスタジオ録音>で書いたが、バスティアニーニが舞台で歌ったヴェルディ作品は『オテッロ』以外、全て音源として残った。全てスタジオ録音盤ではなく、『ナブッコ』『エルナーニ』『レニャーノの戦い』はライヴ録音のみであった。ともかくも1962年に彼の当たり役であった2作品が正規録音された。『イル・トロヴァトーレ』や『椿姫』はライヴ盤で多く名盤として残されたがしかしもし、この2作品にスタジオ録音がないとすれば、バスティアニーニ本人にとっても、私達オペラファンにとってもなんとも惜しいこと、痛恨の思いになるのは想像にかたくない。 バスティアニーニのスタジオ録音は結果としてともかくも彼の人生の記録では間に合ったのだった。 実際2作品は完璧な出来映えであった。特に『イル・トロヴァトーレ』はライヴ録音のどれと比較しても、バスティアニーニは全篇完璧な歌唱、声、魅力に溢れている。他の歌手達も秀逸で、特にカルロ・ベルゴンツィは彼自身の録音においても最高水準に入るだろう。

(写真は「イル・トロヴァトーレ」スタジオ録音時、左は名指揮者トゥリオ・セラフィン)

『椿姫』は歴史的名演として残された1955年のスカラ座公演マリア・カラス、ディ・ステーファノ共演ライヴ盤と1956年スカラ座公演マリア・カラス、ジャンニ・ライモンディとのライヴ盤は最高のヴィオレッタとジェルモンであった。他に1955年リチャード・タッカー、リチア・アルバネーゼのライヴ盤の歌唱は、バスティアニーニはもとより、タッカーも見事な美声であった。アンナ・モッフォとの1964年ウィーンでのライヴ盤もあるが1964年であったことから、バスティアニーニのジェルモンとしては納得いく歌唱ではなかった。 この『椿姫』スタジオ盤はレナータ・スコットとジャンニ・ライモンディとのイタリアオペラ界の実力スターの共演で、安心してオペラに聞き惚れる名盤となった。 7月31日、8月4・11・20・25・30日ザルツブルク新祝祭大劇場で『イル・トロヴァトーレ』を歌う。レオンタイン・プライス、フランコ・コレッリ、ジュリエッタ・シミオナート、そしてヘルベルト・フォン・カラヤンの公演で、ライヴ盤は多くの盤がリリースされて存在している。熱気ある歌唱、火を吹くような公演である。多くのバスティアニーニのルーナ伯爵でどれも素晴らしいがこの公演を聴くと、誰もが他の歌手のルーナでは満足できないと思われるだろう。もし他のバリトンのルーナ伯爵が良いと思われるならそれはバスティアニーニの歌唱を聴いていない方だと思う。それほどライヴ盤の中では決定盤である。丁度マリア・カラスのノルマを他のソプラノのほうが良いと思われるのは、カラスの歌唱をまだ聴いていない方だと思うのと同じである。

バスティアニーニのシエナでのスーツ、ポロシャツ姿の映像 シエナの8月16日のパリオにバスティアニーニの地区パンテーラは出場できた。本レース以前から出場チームや馬の抽選会、各地区のカピターノ(隊長)紹介や地区の食事会の様子がドキュメント風にまとめられたイタリアRAIのフィルムがある。その中にバスティアニーニがパンテーラのカピターノとして紹介され、彼がコントラーダ(地区)の人々と食事し、パンテーラの歌(地区の歌)を歌う様子が収められている。他にも僅かだがシエナのパリオについてインタヴューに応じる肉声もある。凛とした立ち姿と肉声の美声にため息が出る。ザルツブルク公演の合間を縫って、シエナでの多忙な充実した日を過ごしていた。彼はこのような美声の話し声だったのだ。

9月2日から1ヶ月間ウィーンで6公演出演する。2日、20日の『トスカ』はアントニエッタ・ステッラとフランコ・コレッリというキャストである。9月4日は『仮面舞踏会』を、これもステッラと歌っている。7日は『カルメン』でドン・ホセは古くからのオペラファンなら記憶にあるかもしれないが、1966年頃ではなかっただろうか、日本にスラヴオペラが招聘され、チャンガロヴィッチやギュゼレフと共に来日したリュボミール・ボドゥロフというテノール歌手がいた。このテノール歌手との共演である。筆者は17歳頃だったが『ボリス・ゴドノフ』『エウゲニー・オネーギン』『イーゴリ公』『売られた花嫁』の放映番組を食い入る様に見、また『イーゴリ公』は舞台公演を見、特別演奏会にも出かけた。当時29歳のニコラ・ギュゼレフの独特な錆のある深いバスの声に聞入ったものであった。ボドゥロフは来日公演より数年前にこうして活躍していたと知りなんとも懐かしい。11日は『ドン・カルロ』で『仮面舞踏会』と同じステッラ、シミオナート、フェルナンディとで歌っている。音源のないのが、また映像のないのが惜しい。9月23日は『アイーダ』である。レオンタイン・プライス、ジュリエッタ・シミオナート、そしてロヴロ・フォン・マタチッチの公演でライヴ盤に残されている。先に書いたスラヴオペラ来日公演でこのマタチッチが指揮をしていた。バスティアニーニのアモナズロは彼がオペラをスタジオ録音した初めての作品である。1954年であるが、一般に出ていなくて長い間入手は困難であった。多くのファンが聴いていたアモナズロはこのウィーンのライヴ音源であった。ライヴの熱気とバスティアニーニのアモナズロ像に十分満足できる。 一連のウィーンでの出演を終えて10月初めから11月末近くまで2ヶ月間アメリカツアーに出向く。 疲労と咽頭のことが気に懸かりながら、ともかく公演の歌唱は力強く、且ついつものバスティアニーニの美声で歌えたことだっただろう。ふたつのスタジオ録音盤や7月のザルツブルクの歌唱からも窺える。7月31日のザルツブルクでの『イル・トロヴァトーレ』は今までの胸の透くようなリズムが迸った旋律に見事に乗り切った声に、更に渋みといおうか、円熟の声に怖さ、凄みが加わった様に思える。咽喉の調子はどうだったかわからないが、凄い迫力の歌唱と声で歌った公演はさらに続く。

アメリカツアーのデータは、ボアーニョの1991年の著書と比べると、同じ著者だが2005年著書「ETTORE BASTIANINI I suoi personaggi」の方がアメリカツアー公演出演データ数は多く記述されている。10月2日サンフランシスコで『イル・トロヴァトーレ』、6日はロサンゼルスで『イル・トロヴァトーレ』、13日サンフランシスコで『道化師』をマリリン・ホーンとデル・モナコと共演、これはライヴ盤でも聴ける。24日も出演する。21日はサクラメントで『道化師』を、26日はサンフランシスコで『ラ・ボエーム』を、これもヴィクトリア・デ・ロス・アンヘレスとマリリン・ホーン、シャンドール・コンヤでライヴ盤が残っている。27日はロサンゼルスで『カルメン』を31日は『道化師』を歌う。11月2日『カルメン』、4日『イル・トロヴァトーレ』、6日『トスカ』、10日『イル・トロヴァトーレ』を歌い、その間の8日はサンディエーゴで『イル・トロヴァトーレ』を歌っている。

シカゴの『リゴレット』そして11月17日から21、23、26日と4回シカゴで『リゴレット』を歌っている。ライヴ盤に残された唯一のリゴレットである。凄まじい力、渾身の歌唱、深くて強い声、長い息、怨念を晴らすような叫びにも感じられるほどの強烈なリゴレットである。誰もこれほど大きな強い声で、しかも長く伸ばされたリゴレットは歌えないだろう。バスティアニーニのリゴレットはこのような舞台であったのかと重く深く聴きとめた。スカラ座のリゴレットはどうであったかはわからないが、全体を通して見ると私はこのシカゴ公演と大きな差はなかったのではないかと考えている。だがこうも考える。スカラ座公演の野次の悔しさを晴らすこと、バスティアニーニはこんなに歌えるのだと訴えたかったのではなかったのか。そしてまだ自分はこんなに歌えるじゃないか、という自分自身の声へのテスト・試しと確認そして挑戦の心理が動いていたのではと考えている。 また同時期のサンフランシスコでの『道化師』『ラ・ボエーム』のライヴ盤が音源として残されている。勿論『リゴレット』の迸る怨念パワーで歌う作品ではないが、『道化師』トニオのプロローグはいつもの美声に深みと凄みが加わった、しかもたっぷりとしたスケールの大きい歌唱であった。レオンカヴァッロの音楽性、すなわち品格と人生の憂愁まで滲み出させていた。そしてトニオのふざけた身振りで歌い演技するバスティアニーニは観客をなんと笑わせることができたと、共演していたカニオのデル・モナコは驚きを持って語っていた。また『ラ・ボエーム』では善良な恋する青年マルチェッロを生き生きと歌い演じている。

癌の診断アメリカ滞在中、バスティアニーニはニューヨーク在住のイタリア人医師ルイージ・ペッロッタの診察を受ける。医師は多くの歌手たちと交友があり、信頼を寄せられていた人だったのだろう。筆者はこの医師がフィオレンツァ・コッソットに語った診察についての話を彼女から話して頂いていた。医師は咽頭癌であるのは間違いないことを告げたようだ。しかしそれは手術をすれば直る、命は助かるのだ、と熱心に彼に説いた。だが話す声は残っても歌う声、今までの美しく響く歌手の声は残せないことを告げた。バスティアニーニは歌う声、美しく響く声を失うことに、躊躇せざるを得なかっただろう。ともかく今の段階では手術はしないことをこの医師にはっきり伝えたそうだ。ただコッソットさんからは、この診断がいつであったかは、もはや正確には特定できないように感じた。彼女はこの話しを、アメリカで移動中の列車に同乗した折に聞いたのだと言われた。

ボアーニョの2005年発刊の本によると、バスティアニーニはシカゴ公演を11月26日まで歌っている。12月7日のスカラ座オープニング公演『イル・トロヴァトーレ』を12月7、10、13、16、20、23、30日に歌い通している。ステッラ、コレッリ、コッソット、ガヴァツェーニ指揮である。この公演のライヴ音源から、バスティアニーニの変わらないコレッリとの白熱した重唱やルーナ伯爵の恋に身を焼くいつもの彼の名唱が聴ける。

さてアメリカツアーから戻った後、バスティアニーニの人生で最も重要な人マヌエーラに別れを告げる日が迫りつつあった。彼はマヌエーラを失いたくないのに、断念するという悲痛な思いと戦っていた。 アメリカでの診察から病気の治癒への道が閉ざされていく。声の維持への執念のように、バリトン歌手が鬼になったような迫真のリゴレットやルーナ伯爵を歌い演じた。これらの公演を歌いとおしながら、マヌエーラへの愛に大きく揺れ悩みながら、別れの決意を固めていったのだろう。4度目のスカラ座初日を飾る栄誉に輝いたバリトン歌手、得意のルーナ伯爵は今もライヴ盤で聴くことが出来る。板についた、充実したしかも緊張感溢れる見事な歌唱であった。しかし最後のスカラ座シーズン開幕初日公演出演となった。

1958年と相反した1962年、声と歌唱の変化 1958年はバリトン歌手としてキャリアの頂点に達し、プライヴェートな面で多くのことが展開した。マヌエーラとの出会い、パンテーラから信望を寄せられ、カピターノに推薦されたこと、父親の出現と別れがあった。息子イアーゴはまだ13歳という難しい年齢ながら、キャリアと恋とシエナのパンテーラでカピターノとなったことなど、バスティアニーニの人生にとって幾つもの理想・夢の支柱が見事に現実に形となった年であった。 彼の声は1960年頃から少しづつ声に深さ、渋さ、凄みが加わってきたと筆者は感じていた。マヌエーラとの愛は順調に深まり、危惧していた彼女の家、家族との信頼を築く幸せを実感したことだろう。パンテーラのコントラーダの人々との繋がりにも彼は喜びと誇りを味わっていた。歌唱に深みが加わったことは、これら人生の広さ、深さを実感し、歌唱表現に加えていったのではないだろうか。人生の明るい展望への喜びと余裕から表現の深さに及んでいったのではないかと筆者は考えている。

だが大バリトン歌手にとっての充実は全て、マイナスに向かうかもしれない程のサインを出させる多忙・疲労との表裏一体であった。 1958年以降は歌手活動だけでなくパンテーラの仕事、母親との交信といおうか、気配りなどの物理的な疲労、イアーゴとその母のことなどの心労があっただろう。その上に徐々に自分自身の健康が蝕まれ、身体の疲労感となって表れだしてきたのが1961年頃からではなかったのだろうか。まだ身体が健康であった時は歌唱表現がプラスに作用したが、予期せぬマイナス面が潜み動き出していた。疲労と声の調子の変化を彼は気づいていたのではと考える。バスティアニーニは、先に挙げた幸せから来る心の余裕を歌唱に幅と深さを加えて表現したと書いた。これはその通りだと考える。だがもう一面もあったのではと想像する。1959年頃までの従来の美声に加えてレガート、卓越した歌い回しが、以前のようにたやすくできなくなったことをキャッチし、心の余裕から加えた歌唱表現の深さ、力強さ、凄みを更に全面に出していったのではないだろうかと推測する。

そのような中で1962年には咽喉の違和感と実際に疾病を認識する。シカゴの『リゴレット』などは1961年頃までの歌唱表現のうえに、まだこんなに声が出るのだ、と試しかつ挑戦しているように筆者には映った。

1962年末までがバスティアニーニのピークであった。それまでどれほどハードであり、心身の疲れを犠牲にして成り立っていたことが見えてきた。勿論スカラ座、ウイーン国立歌劇場、メトロポリタン歌劇場、アメリカツアー、ザルツブルグ祝祭大劇場、サン・カルロ歌劇場、フィレンツェ・テアトロ・コムナーレ、ローマ・オペラ座等の燦然と輝くばかりの劇場から依頼を受け、バスティアニーニは多忙の中、充実感を味わいながら邁進していたのだろう。しかし、当時は世界の航空路線ネットは今とは比較に成らないほど少なかっただろうし飛行機の性能は50年も前の時代だから、どれほど疲れるかは想像が出来る。劇場に着いてオペラとはすぐに歌うものではなく、ゲネプロ(舞台リハーサル)も行う。まして新しい演目上演の際は多くのことを身につけなければならない。 1962年はパンテーラ以外が崩れていく始まりの年、苦悩の始まった年であった。それでもまだ1962年は従来のバスティアニーニの美声に深さ、表現の凄みが加わった歌唱を十分に披露できたが、翌年からは声そのものと格闘する苦悩が始まる。