声と歌唱

声と歌唱


Ascoltiamo la sua voce per vederla.
(無断転載禁止)
バスティアニーニは43歳で舞台を最後にしたので、彼にとっては思うほど多くのレパートリーが歌えなかったかもしれない。それでも29歳でバリトン歌手になってから約14年間で44の役を歌い演じた。スカラ座、ウィーン国立歌劇場、メトロポリタン歌劇場など劇場側の演目決定はかなり保守的に思える。中には復活上演や、めったに上演されない演目もあったが、もう少し企画にチャレンジしても良かったのではと感じる。バスティアニーニのような大スター歌手が輩出されたイタリアオペラ黄金期であったからこそ、彼らの輝かしい歌唱を活かす人気オペラ作品を取り上げた興行を打ち出したのかもしれない。演目についてはほかにも劇場側の多くの要因によって決定されたのだろう。

ヴェルディと『オテッロ』について

エットレバスティアニーニ写真バスティアニーニのヴェルディは、ヴェルディがもし生きていてバスティアニーニのレナートやルーナ伯爵、ロドリーゴの歌唱を聴いたとすると、自分の作った人物が魂を持って歌い出したと思ったに違いないとよく表現される。ヴェルディを11演目歌った。彼が舞台で演じたヴェルディ作品は幸運なことに『オテッロ』以外全部録音が残っている。『リゴレット』『イル・トロヴァトーレ』『椿姫』『仮面舞踏会』『運命の力』『ドン・カルロ』『アイーダ』これらはスタジオ録音とライヴ録音にも残されている。また初期の『ナブッコ』『エルナーニ』『レニャーノの戦い』はライヴ盤だけだが残っている。

『オテッロ』はマリオ・デル・モナコ、レナータ・テバルディとヘルベルト・フォン・カラヤン指揮のスタジオ録音盤があるが、当初バスティアニーニのイアーゴでスタジオ録音が開始されていた。完成できていれば名盤として称賛され、楽しめたものをと残念なこと極まりない。
当時の録音に携わったジョン・カルショーが<カラヤンと仕事をして>という文を残し、カラヤンの気難しさと、音に拘り大掛かりな装置で嵐のシーン録音の様子が紹介されている。またバスティアニーニに不満を抱き、プロッティに変更された過程が僅かに書かれていた。長年、日本のオペラファンの中で、原文から日本語訳された内容だけに留まらず、話しを脚色しまた憶測で語られてきたことが残念だがあった。参考に<カラヤンと仕事をして>という文で、バスティアニーニに関連する文を掲載する。

ジョン・カルショー著 「レコードはまっすぐに」 あるプロデューサーの回想
第27章《カラヤンのオテロ》の中でバスティアニーニに触れられている部分がある。
学習研究社より山崎浩太郎訳で出版されている。ここで掲載する文は原文の英語からイタリア語に訳された文を刈米興子氏が日本語に試訳された文である。途中の空欄部はバスティアニーニと関連のない部分のため省略させて頂いた。

カラヤンと仕事をして

G・ヴェルディのオテッロの録音

1961年前半の音楽上もっとも重要な出来事がヴェルディのオテッロの初めてのステレオ録音だったことは疑いない。ヘルベルト・フォン・カラヤンの指揮の下、テバルディ、デル・モナコ、バスティアニーニを含むキャストで、ウィーンで実施された。
バスティアニーニは戦後のイタリアにおける最高クラスの美声バリトンとされていた。その彼をヤーゴのような悪役のために選ぶことは、当初奇異に見えた。だがバスティアニーニはすでに“ラ・トラヴィアータ”のジェルモンのような適役ばかりを歌うことに飽きていた。ことによると、キャリアの初期にバスからバリトンに移ったように、転進を考え始めていたのかもしれない。ヤーゴを歌うこと、とりわけカラヤンの指揮で歌うことが最大の願望だと言っていたから、この役に選ばれたのは至極当然だった。ティート・ゴッビは空いていなかったので、その機会をバスティアニーニに提供することは妥当に見えた。克服しなければならないのは別の問題だった。音楽上ではなく技術面でのことだ。たとえば、ヴェルディは第二幕でコルナムーザという楽器を使っている(といっても、そのパートはオーボエでも演奏できる)。我々イギリス人はそれがどんなものか、誰も知らなかった。ようやくゴードン・パリーがヴェネツィアで一つ探し当てることに成功し、英語で“イタリアン・バグパイプ”と呼ばれる楽器であることが判明した。それでも幕開きの混乱した場面で、大きな困難にぶつかった。多様な遠近法の中でソリストたちやコーラスを使うことばかりではなく、雷鳴と大砲の一撃、オルガンを必要としたことだ。その上、カラヤンは嵐の効果として風の音を要求した。それは劇場の上演で使用した旗が風にはためく音になるはずだった。スコアには指定されていないが、私はこの要求に反対しなかった。ただしいくら払っても足りないほどの注意をもって臨んだ。大砲の一撃は予備として保管されていた録音装置のテープにあったものを使い、“テンポに遅れず”撃たねばならなかった。なぜなら、1961年には同時録音後の効果を得ることがまだ容易ではなかったのである。これらは音楽が演奏されているうちに重なる必要があった。一つ間違えば、メインスタジオで働く二百人以上のスタッフが最初からやり直すことになる。
大砲を発射させるのはイタリア人プロンプターの一人にゆだねられた。第二十七小節の三拍目の寸前に録音装置を操作し、それから装置を止めてテープを交換したあと、もう一度発射しなければならないからだ。責任の重圧から来る緊張はミスを誘発した。最初のテストでは、大砲を撃つのが早すぎた。二番目と三番目では遅すぎた。そのつど不運なことに、カラヤンと彼の仲間全員が足止めされた。
オテッロの冒頭場面の演奏は誰にとっても容易ではない。これらの不手際なスタートにカラヤンがいらだったのは理解できる。彼はプロンプターに、君の計数能力をもう信頼できないから、今度は僕がボタンを押す正確なタイミングを教えると言った。プロンプターはほっとした様子になり、我々は幕開き部分の四度目の演奏を始めた。カラヤンはボタンの押し忘れを避けるため早めに合図を出し、大砲は完全なタイミングで発射された。全員が安堵の吐息をついた。ところが、大砲がだしぬけにまた発射した。我々のイタリア人は得意な気持ちから録音を止め忘れていたので、みんなが最初からやり直す羽目になった。もし私が装置にかかわらないという自らのルールをすでに破ってオルガンの音をほかにもう一台ある装置にいれることを担当していなければ、録音装置を自分で操作していただろう。ゴードン・パーティとジミー・ブラウンはもう音量調節装置の雑多な指示に拘束されていた。ゾフィエンザールにオルガンが一台もない事実を別にしても、オルガンのことでも問題があった。楽器自体についてではなく、ド、ドシャープ、レの三度の音階の中で五十ページ以上、言い換えれば、約八分にわたって持続する長音のことであった。ヴェルディは戸外の嵐を表現するごろごろという低音をはっきりさせるよりも、どちらかといえば感じさせるほうを望んだだろう。私たちはそう判断した。彼が主に目指すものは、積極的なものよりも消極的なものに思えた。その理由で、もし観客がその音に気づかないとしても、オテッロが凱旋を遂げる直前まで雷雨を続けるより冒頭だけでやめるほうが望ましい。この手法は音楽が絡み合う部分よりもいっそう効果的だが、劇場ではめったに採用されない。あるいはまったくなおざりにされるか、電子音で代用される。したがって我々が望んだのは六十四管の本物のオルガンだった。我々の知っている、それに適合する唯一のものは、リバプールのイギリス国教会の大聖堂にある不完全な楽器だった。その教会のオルガン奏者のノエル・ロースソーンを知っていたのは幸運だった。彼は長音を録音してもいいと言った。しかしそれがどれだけ続き、どのように響かなければならないかが明らかになると、当然のことに、録音できる時間は真夜中しかないと告げた。

中略

テバルディとデル・モナコは、カラヤンの前では模範的なふるまいをした。というのは、彼が二人の気分の急変にほとんど注意を払わないのを知っていたのが主な理由だった。二人は声に“従う”カラヤンの異例の能力、単純な伴奏でもっとも顕著に示される抑制された柔軟性ともいえるものに感嘆した。だが同時に、彼がその気になれば呼吸できないほどテンポを落とし、フレーズを広げて自分たちを苦しめることも知っていた。オペラの指揮者として、カラヤンは打ち負かせない敵である歌手に対して非常に理解のある同盟者になることができた。バスティアニーニが体調不良を口実にしてリハーサルやセッションに現れなくなったとき、やる気のなさの最初の兆候ではないかと疑われた。当初、彼に回復の時間を与えるためにセッションを予定しなおすことは困難ではなかった。だがやがて明らかになったのは、彼が自分のパートを理解していないことだった(彼ほど聡明な人にしては驚くべきことだが)。最初カラヤンは辛抱したが、それもあまり長続きしなかった。彼はうらやましいほど自己訓練を強制するタイプの指揮者である。したがって、自分と仕事をする人間にせめてそう努力することを期待する。残念ながら、バスティアニーニは自分の準備不足を、悪げのなさを装ってごまかそうとした。作品の物語も知らなかったと言い張りさえした。「このハンカチの話って何ですか?」あるとき、彼は尋ねた。“ある夜のこと”を歌うときになって、断絶は起こった。この歌は譜面上は簡単で、それほど難しいパッセージはない。いくつかのテストとして、最初の一フレーズかニフレーズ演奏したあと、カラヤンは中断した。当然ながら、声とオーケストラが一致しなかったからだ。すると、バスティアニーニはカラヤンのテンポが明確でないと言う非常識な失敗を犯した。それはオーケストラ全員の前で、カラヤンを笑いものにすることだった。いくつかのパッセージでカラヤンのテンポが明確でないことはあった。たとえば“イ・ピアネティ・ディ・ホルスト”の冒頭部分。しかしオペラのレパートリーでカラヤンをとがめるものは誰もいなかった。さらに二度の試みのあと、カラヤンはそのパッセージをほっておいて先に進んだ。セッションが終わると、カラヤンはバスティアニーニをヤーゴ役から降ろして、代わりに当時ウィーンにいたアルド・プロッティを使いたいと私に言った。プロッティは十年ほど前にエレーデ指揮、テバルディやデル・モナコと共演の初盤でこの役を演じたが、あまりぱっとしなかった。誰も、とりわけアメリカの関係者は、プロッティの起用に乗り気ではなかった。だがウィーンでは選択の余地がほとんどなく、プロッティを雇わなければ、録音を放棄するしかなかった(実際には、その十年間にプロッティはずっと上達していて、歌唱は並外れたものでないにしても、適切だった)。バスティアニーニに引導を渡すいやな役目は私の任務だった。彼はショックから泥酔した。そんな立場に置かれるにはあまりに感じのよい男だった。私がしばしば考えるのは、わずか数年後に彼の命を奪う不治の癌がすでにそのころから始まっていたのを、本人は自覚していなかったことだ。そのときまで、彼は依然として最盛期にあった。バスティアニーニが病気であることを、我々の誰一人として想像しなかったのは確かだ。それでも、彼が初めての役柄をウィーンで歌う場合の歌唱スタイルと違っていることは知っていた。

以上がカルショーの触れている部分の試訳である。

この本では触れられていないが、カラヤンはこの後も歌手と結構悶着を起こしていたことも事実である。カラヤンとの録音時は歌手たちも気を遣っていた様子が文面から感じられる。カラヤンに対して誰も口出しはできなかった。のちに彼の死を知ったが、録音当時は誰も病気のことなどイメージしていなかった、それでも初めての役を歌う時と違っていた、と文にある。バスティアニーニはこの当時多忙であったが、オペラ公演は全て素晴らしい舞台を重ねていた。彼については多くの指揮者・歌手が語るように、彼は常にオペラをマスターし、時間通りに来て口数は少ないが、しかし感じが良く、礼儀正しく、舞台が終わると挨拶を済ませて帰る人であったことが語られている。この録音に際して、彼はとりわけイアーゴを歌うことを望んでいた。だがこの本によるとカラヤンの不興を買ったようだった。疑問は残る。彼の今までの業績や語り継がれてきた証言からは、彼が勉強不足であったことも不可解である。しかし、バスティアニーニは多忙と疲労、そしてまだ認識していなかった病気から来る体調不良などにより、彼にしては珍しく録音に備えられなかったのかもしれなかったのではと想像できる可能性がある。このような準備不足やキャンセル等のアクシデントめいた話しは彼にはなかったことだったのだが。この録音を降りて彼は相当嫌な思いをしたようだった。1957年、1958年からこの1961年までの数年をあの異常なハードスケジュールをこなしてきた。1958年では新たに6つのオペラも歌っていたほどだった。疲れは溜まるが断ることなど出来なかった中で、舞台をこなしてきたのも、疲れの心配よりも歌うこと、即ち舞台に完璧を求めてやり遂げる責任感と芸術への達成感からであっただろうと考える。スタジオ録音でも同様であった。彼の残したスタジオ録音はバスティアニーニの不世出のバリトンを表出していて、どれも素晴らしい。彼は確かに『オテッロ』への執着があったはずだ。だが録音に必要な要素が、彼の思いと現実の状況でかけ離れてしまい、彼のオペラ芸術記録の中にイアーゴを残せなくなってしまった。歌手人生において新たな苦難の始まり、悲劇の前触れであったのかもしれなかった。

ボアーニョの著書「ETTORE BASTIANINI」には、不思議だがこの録音時のことは何も触れられていない。カラヤンとの関係では最初にザルツブルク、ついでウィーンでカラヤンお気に入りの一人となり、国立歌劇場での贔屓の歌手となっていった、とある。またバスティアニーニは『オテッロ』の公演機会が1965年カイロで1回しかなかったが、その新聞批評は絶賛されていた、という記述等である。
シエナのヌオーヴァ・イッマージネ出版社から出ている「ETTORE BASTIANINI」では、オーストリアの聴衆の項でこの『オテッロ』録音時についての記述があった。
デッカでカラヤンの元で録音を開始したが、何かの不都合が起こりイアーゴの役を降りた。バスティアニーニは極端に控えめな人柄だったので、撤退の理由を明らかにしたとは考えられないが、カラヤンに意義を唱えた結果ではないか、という人もいたようだ。だがどのような考えの違いなのだろうか。バスティアニーニはイアーゴ役に執着していたことは、1度だけしか機会がなかったけれど、別人のようにやつれてもカイロで演じ成功した事実が示している。1962年(1963年も)の夏にカラヤンはザルツブルク音楽祭で大事な演目にバスティアニーニを出演させている。何か二人にトラブルがあったようには考えられないのではないだろうか、という記述でこの当時のことが紹介されていた。(刈米興子氏試訳)

筆者はカルショーの文の方がその場にいた人の視点でより真実味があると思えるが、バスティアニーニの録音が消えたことがなによりも惜しいことだった。バスティアニーニが1957年、1962年のコンサートで「イアーゴの信条」を歌った音源が残っている。いずれも素晴らしい美声で彼しか出来ない歌いまわしの巧さ、旋律がまるで身にぴったりくっついているように彼の声に添っている。人物設定像らしい暗い屈折した人間像が彼の深い陰影ある声で表現されている。時に恐ろしいくらい底知れぬ心根の悪さが光り、緊張感が漂う。すると最後にオテッロを嘲笑し、自らを鼓舞するように、思いきった大きな美声の嘲り笑う声で締めくくられる。全曲バスティアニーニは自在にイアーゴを掌中の玉のごとくに歌えたであろう。作曲者の意図や理想を超える歌唱を成し遂げてしまうバスティアニーニの才能を十分知っている私達は、「クレード」(イアーゴの信条)を聴くだけで、イアーゴはおそらく彼のレナート、ルーナ伯爵、ロドリーゴのような卓越したレパートリーとして、体現してくれることは容易に予想がつくのだが。

しかしこの後もバスティアニーニはウィーン、イタリア、アメリカでも多くの舞台をこなし、カラヤンとも共に仕事をしていた。ウィーン国立歌劇場では1965年の4月まであれほど多くの回数に出演し、しかもカラヤン自身もバスティアニーニの演目で指揮もしていた。
数年前からカラヤンのウィーン国立歌劇場とイタリア人歌手達との蜜月的な出演が続いていた延長線上にこの録音があったのだった。

1950年代半ば頃カラヤンはイタリアオペラをウィーンで積極的に上演し指揮をしていた。ウィーンではイタリオペラはドイツ語でドイツ系の歌手達が歌い演じていた。そこにイタリア人大歌手達をどっと招き入れ、毎夜劇場のプログラムを飾った。バスティアニーニは熱狂的に迎えられ愛され続けたことが、ボアーニョやリッツァカーサ編著による本からも十分読み取れる。レナータ・テバルディ、アントニエッタ・ステッラ、フェードラ・バルビエーリ、ジュリエッタ・シミオナート、フランコ・コレッリ、カルロ・ベルゴンツィ、チェーザレ・シェピ、ボリス・クリストフなどのスター歌手とオーストリアやドイツの人気スター歌手達、レオニー・レズニック、セーナ・ユリナッチ、ヒルデ・ギューデン、クリスタ・ルードヴィッヒ、ワルター・ベリー、ハンス・ホッターなどの共演で公演が繰り広げられていた。ビルギット・ニルソン、レオンタイン・プライスなどもウィーンやスカラ座でも見られた。

研究会では当時バスティアニーニと驚くほど多数会に亘って舞台で共演していたジュリエッタ・シミオナートに、彼女は当事者ではないが『オテッロ』スタジオ録音でバスティアニーニの出演取りやめについて、何かご存知であればと2001年10月彼女のご自宅で直接お伺いしたが、全くご存知ではなかった。

ヴェルディが求めたバリトン像をバスティアニーニほど美声で歌い表現し、存在感を示した歌手が、あのイタリアオペラ黄金期に他に誰ができたであろうか。

筆者が録音から聴けたのはティタ・ルッフォからレナード・ウオーレン、ロバート・メリル、ティト・ゴッビ、ジーノ・ベーキ、ジュゼッペ・タッディ、アルド・プロッティ、マリオ・セレーニ、ピエロ・カプッチッリ、シェリル・ミルンズ、レナート・ブルゾン、レオ・ヌッチ・・・等で、まだ活躍している歌手達もいる。声は美声だが単調である人、美声で表現もあるが悲しさなど感じられず人を惹きつけられない人、美声だがまるで抑揚のない、何を聞いても同じような歌唱しか出来ない人、声が単調、単色でしかも声が硬い人、美声で柔らかい声だが声量に欠ける人、重厚と言われるがあくがあって多くの役はあまりこなせない上、声は余り通らない人・・・と、どのバリトンも幾つかの欠けた部分を感じる。共通するのはそれぞれ良い声を持った大歌手で大活躍をしていたことだ。

声の特性と魅力

バスティアニーニほど多くの要素を声と歌に表わし存在感を示し、且つ映画スターのような雰囲気を持つバリトン歌手はいなかった。声・歌唱・雰囲気の共通項を一言でしか表現が許されないとすれば、気品の美であったマリア・カラスがオペラ作品のヒロインに生命を吹き込み、ヒロインに魂を持たせ個性を浮かび上がらせたとすれば、バスティアニーニはテノールと敵対、またはテノールの親友、父親、片思いの人物像に恋をする心、娘を思う心を持つ人間としての気高さをオペラの音楽を尊重して格調高く歌い上げた。常に人物像を気高く表現した。言い替えればバリトンの人物像に人権・人格を与えた。
だから悪漢スカルピア、バルナバは何も不格好の男とならなくても良い、ねちねちとしたイメージでなくても良い、ダンディな風貌であっても構わない。実際、権力を持つ地位に居る人間である。トスカはスカルピアが好みでなくても他の女性には注目されるような風貌であってもおかしくない。外見のことは関係がなくても、スカルピアやバルナバにも横恋慕をする人間の生きた血が通った人格を持った人であることを表現した。その人物が人を殺してもそういうことをしてしまう哀れな人格であることを順序だてて納得できるような歌唱と演技で表現した。

それらの人物表現を格調ある歌唱で構築をした。気高い歌い方であった。トニオが自分の惨めさを自覚し、卑屈になり、あげくはカニオにネッダの恋人の存在をわからせ、焚きつけるというキャラクターにも、バスティアニーニはオペラ芸術の高貴な美をトニオの悲哀な旋律で歌い上げ、レオンカヴァッロの音楽の美を表現した。しかもトニオになって表現した。オペラの音楽というものを心からバスティアニーニは愛していたことがわかる。そして芸術は品格がなければならないことを知っていた。『道化師』の作品からでも人の生涯、悲哀、生活、感情が表出している。その様態に品格を持って描くことが気高いのである。

ドニゼッティも同様である。そしてプッチーニ、チャイコフスキー、ビゼー、ジョルダーノ、マスネー、ポンキエッリ、グノー、プロコフィエフ、マスカーニ、レオンカヴァッロ、チレア、ヘンデル、ベルリオーズの作品を現在聞くことが出来る。ロッシーニは『セヴィリアの理髪師』1作品のみであった。『ウイリアム・テル』などの出演があったならと残念に思う。それぞれの中の人物像をオペラ全体の中に的確に位置させ、活かした。旋律には作曲者のキャラクター像が込められているのは自明の理だが、バスティアニーニは柔らかく艶のある上品な輝きの美声で、音程正しく、抜群のリズム感で歌った。旋律と一体となった歌いまわしの巧さが光るが、誇張や嫌味が全くなく口跡の良さは更に品格を増した。正確で崩さない歌い方が基本であった。だから様式感ある歌唱ができたのだった。古臭い歌唱は全くなかったバスティアニーニは新しいスタイルの様式美を生み出した。ボアーニョが書いた本にバスティアニーニの声をブロンズのように深くベルベットのように柔らかい、と表現した。その通りでブロンズのように強く深く黒味を帯びた光を放つような声、そしてビロードのように柔らかく心地良い光沢を思わせる声である。彼はまたレシタティーヴォにも表情に富んだ的確で美しいフレーズで歌う。僅かな小節のレシタティーヴォにも意味が込められ、聴くものの心に入り込む。レシタティーヴォを含む歌唱は口跡さわやかで、他の歌手とこの点だけを比較しても際立って優れている。本当に多くの歌手達が絶賛する発音の良さ、明瞭さと気品があった。これらの美しい音色でメリハリある表現と滑らかな様式美に乗った歌を作った。
しかしバスティアニーニという人にそして彼の声にはどの歌手にもない魅力が備わっていた。映画スターが人を虜にするような魅力であった。バスティアニーニの声と歌唱はせつなくていとおしさで一杯になるほど人の心に取り付く魅力があった。哀愁を帯びた声が旋律に乗る。テノールが輝かしい高音、明るい張りのある、慈愛を持った柔らかい声とか表現される。バスティアニーニの声は、陰影ある声で恋を感じさせる声であった。憂愁の音色を持った声で聴く者のハートに永久定着をする。恋を感じため息をつかせる、たまらない声なのである。

演技への考え方

貴公子と表現もされる。ロドリーゴ、ルーナ伯爵、レナート、カルロ王、ナブッコ王、アルフォンソ王、エンリーコ、セヴェーロ、ロランドなどの王侯貴族や、騎士そして高潔な人間像を演じては他の歌手の追随を許さなかった。他の役名を演ずるバスティアニーニでも、彼自身を指してオペラの貴公子と言われた。彼の舞台姿は1957年RAI放送局制作の『イル・トロヴァトーレ』と1958年『運命の力』が現在DVDで見られる。1963年日本公演『イル・トロヴァトーレ』一部と1965年日本でのリサイタルの一曲分のみの映像が残っている。イタリアでの映像では無駄のない映画の中のような演技だと感じられた。『運命の力』は撮影方法に変化が少なく臨場感が乏しく感じられたが、無駄な動きがなく自然で花のある演技であった。『イル・トロヴァトーレ』は思うように動けないほど狭い部屋で撮影したことがわかる。日本公演『イル・トロヴァトーレ』は当時、頻繁にテレビ放映されていた。惜しいことだが、各家庭にビデオ装置がまだなかった。目に焼き付けた記憶からだが歌っている時もバタバタと動かない。両足がほぼ揃うように立ち、僅かに腕が動くだけでも動作に気品があった。数歩移動して身に付けたマントが揺れ動くと、それがまるでバスティアニーニの魅力の粉がキラキラと撒かれたように思った。その渦がオーラのように揺れ動いた。もっと驚いたのがカーテンコールだった。現在のヨーロッパの国王、皇太子でもこれほど美しくそして気品に溢れていなかった。背筋、首、頭までが一直線のように見えた。足の運びはまるでファッションモデル以上である。文字通りオペラの貴公子だった。日常的には態度も紳士であったことが多くの人からの証言でわかるが、普段も実際、このようであったらしい。マヌエーラさん(元婚約者)の言われたことだが、バスティアニーニはいつも皇帝のようだった。立っている時も堂々としてきちっとして美しかった、と。
バスティアニーニは余分な動き、やりすぎ、大げさな演技をしない人であったことが、多くの歌手仲間からの証言で言われていた。当時はまだ舞台演出家が大きく権限を持たずクローズアップされていなかった。舞台装置はできるだけ作品に見合った背景や調度を設え、衣装も同様であった。歌手達はそれらから自ずと登場人物の役に入ることが出来た。現在のように背景も衣装もオペラ作品とは直接イメージが違うセットや奇妙な色に囲まれ、あれこれ細かい指示と度を越す動きを指図されることはなかった。歌手にとって演出家から納得のいく、時に感動を受けるほどの指示でリハーサルを行っていたのではないだろうか。だからバスティアニーニも歌に集中し、演出家の意見を取り入れながら自分自身で考えた表現を全体の作品と舞台演出に溶けこませて行っていたのだろう。しかしボアーニョの本に書かれていた『イル・トロヴァトーレ』の映像でデル・モナコが目ばかりむく演技やレオノーラのレイラ・ジェンチェルは首や頭を動かし、両手をたえず広げている、と書かれてあった。バスティアニーニと違ってこのようなジェスチャーの歌手も他にもいたことだろう。彼らなりにこれらの表現が良いと思っていたのだろう。これらは却って素人っぽい舞台の印象を与えることに成らないだろうか、作品と舞台に品格を損なわせているように筆者には思える。バスティアニーニの演技はそのシーンに見合った歌唱と見合った動きと表情を的確に行っていたという証言が多かった。大げさな振りをつけなくても自然な動きと映画の画面で見るような自然な演技を的確に行った人であったようだ。その方が登場人物に品格を与え、雰囲気がよく出されていたのではと思う。1950年代半ばルキーノ・ヴィスコンティのような映画も手掛ける演出家から歌手達も的確な演技指導を受けるようになり、やがてオペラ演出家時代を築いていった。バスティアニーニは彼自身が持っていた新しい洗練されたセンスで、新時代の演出に自然に融合していけたのではないだろうか。1950年代半ばから1960年代に演出が見直され出し、オペラ演出家の時代に入る前のぎりぎりの所にバスティアニーニは居た。1980年代頃からは斬新さ、簡略、抽象演出がオペラ界を席捲していった。

バリトン役に光を当てさせた

オペラで抗えない運命に翻弄される恋人役はテノールが多いが、敵役になる人物や他のキャラクターの登場人物も、テノールのように人格を持った人間として登場させなければならないのではないだろうか。演劇でも映画でも同様である。主役でない場合で劇の中心ではないにしろ、仮にバリトンだけの役柄にスポットを当てても十分、キャラクターとして存在感ある配置が必要である。例えば『イル・トロヴァトーレ』でルーナ伯爵が月のない深夜に恋するレオノーラを思って登場するシーンは、ヴェルディ最高の恋をするバリトン役の登場のさせ方である。“寝ては夢、起きてはうつつ幻の”という境地だ。しかもテノールよりも先に登場させている。<君の微笑み>ではテノールが歌うように切々と愛を歌わせている。これを移調させて歌うとテノールのアリアかと思う。 バスティアニーニはヴェルディが創作したテノールのような登場人物像を敏感に把握し表現した。お決まりのただのテノールの恋敵だけで終わらず、恋に身を焦がす主役と張り合う重要人物として表現した。また深読みをすると、ルーナ伯爵はマンリーコと兄弟である。レオノーラが闇夜でマンリーコと間違えるくらいだ、容姿が良くなければ恋は出来ないとは全く言うつもりはないが、オペラのフィクションでしかも中世の騎士物語であるので、マンリーコは一応水もしたたる美青年の設定であろう。ルーナ伯爵も同様であったとしてもおかしくはない。 ヴェルディの多くの作品からわかるように、どれほど劇中でバリトンがドラマの要になり、ドラマの中で活かし、声を重視し発揮させたかに敬服させられる。 しかしヴェルディのようにバリトン像に対し意識が高くなくまた愛着があった作曲家でなくても、バリトンを主役にしたオペラは作曲されている。例えば『エウゲニー・オネーギン』『マゼッパ』『イーゴリ公』『戦争と平和』などロシア物に多いが、他に『タイース』『ハムレット』『外套』『ドン・ジョヴァンニ』・・・等がある。ほかにもオペラの要として登場する、いわば主役、準主役と分けられない場合が多い。『ファボリータ』のアルフォンソ王、『アンドレア・ショエニエ』のジェラール、『トスカ』のスカルピア、『ポリウト』のセヴェッロ、『セヴィリアの理髪師』のフィガロの声・・・等は主役のように重要な意味を持って歌う場面が多い。これら重要なバリトンのレパートリーに何故、バスティアニーニは人の深い感情を声や歌唱で現せたのか。彼自身の素質によることと、バスの声であった低音を活かした声で深い感情表現が行えたことも大きい。それはバリトンの音域でバスの声域を感じさせる音色が出せたからではないだろうか。 バスティアニーニの功績はバリトン役に作曲家の設定以上に風格と気品を与え、その人物に生きた感情を与え美しく表現したことだった。作曲家の予想より美しい歌唱で音楽を芸術的に表現する新しいタイプを創造したことだった。バスティアニーニに何故、惹かれるのか。これらの偉業を成し得た不世出の歌手としての魅力に加えて、美声だけでない彼独自の感傷的なたまらない声と品格ある歌唱と姿から、言いようのない魅力を発散させる。これらの魅力を感覚で捉え吸引されるタイプの人々の心を掻き乱し心に焼き付けてしまった。バスティアニーニとはそのような能力と魅力を持ったオペラの貴公子であった。

丸山 幸子(MARUYAMA Sachiko)