第1回オペラツアーの報告

ツアー報告

エットレ・バスティアニーニ研究会規格催行の旅行報告文
偉大な歌手の足跡を辿るオペラツアーがあっても良いのでは。そんな思いで3月23日~4月2日の「早春のイタリア バスティアニーニゆかりの町とオペラ鑑賞の旅」を企画した。バスティアニーニゆかりの町を訪ねる旅はイタリアでも珠玉の町を辿る旅となることを常々感じていたので、いつの日かこれらの町を案内し、彼の歩んだ道を偲んで貰えればという願いを持っていた。想像していると現実に出来そうに思え実現に向けて始動した。研究会のこの志を込めた理想のツアーをという一念で準備には力が入った。

3月23日(火)

関西空港から7名と添乗員でパリまで。成田空港から4名でパリまで。パリの空港で合流して13名全員でローマへ。

3月24日(水)

ローマから専用バスでナポリへ。車内でバスティアニーニのCDを聴き、彼が来日時の関係者から直接聴き取った話をする。ナポリで昼食後、エルコラーノ観光へ。8時半からテアトロ・ディ・サン・カルロで《ファウスト》鑑賞まで休息やナポリ散策をする。劇場は大きく重厚で華麗。全員平土間、中央部の席で取れている。ファウストはマルセロ・アルヴァレスでかなり良く役をこなしていた。マルゲリータはダリーナ・タコーヴァ。近年活躍目覚しく更に注目していきたい歌手だ。メフィストフェレスはルッジェーロ・ライモンディで声量はやや細くなっていた。ヴァレンティーノはフランコ・ヴァッサッロ。ヴァレンティーノの出番全てに於いて、バスティアニーニのヴァレンティーノの声が重なってしまう。彼は1956年12月にこの劇場でこの役を歌っていて、そのライヴも聴ける。今回の演出はボッスの絵画を巧みに組合せた大きな絵のパネルが中心であった。グノーが長年培った宗教音楽作曲の力量と神学を学んだ精神を結集させたラストの荘厳な音の中に、マルゲリータがギロチンにかけられた首がころがる。が、不思議に奇をてらったようには思わず、命を無残に散らされた無念さの方が伝わってきた。

3月25日(木)

ナポリからユーロスター1等車両でフィレンツェへ、3日目なので参加者同士話が弾む。シエナの町の地形、建築、歴史、美術の勉強にと参考資料のコピーを配布。列車到着後、専用バスでシエナに。まずバスティアニーニの生家前で中の構造や少年期の話をする。キージ・サラチーニ音楽院の中を覗きドゥオーモへ。簡単に説明後、彼の生まれ育ったパンテーラ(豹)のコントラーダ(地区)の本部(日本の観光案内では地区博物館とある)へ。シエナは約400年行われているパリオという伝統行事に根ざした独特の市民の地域社会がある。この本部でも2~300年前の栄光と歓喜の祝勝旗が掲げられている。バスティアニーニは本部の建物から行事に関る多くの費用を殆ど全部といっていいほど負担していた。勿論、地区の寄り合いの場でもある。本部の入り口前では、彼の友人であったパンテーラっ子が待っていてくれた。中を説明後、葬儀の教会や関連の場所を説明しながらバスティアニーニの墓地へ。静謐で凛とした中にも安らぎのある墓前で参加者からの花を供えた。彼が出演した1961年《ナブッコ》公演ライヴから<行け、わが想いよ金色の翼に乗って>のコーラスを流し、小さな声で合唱した。《エルナーニ》からカルロ大帝の墓前で彼が歌う<おお、若き日の夢と偽りの幻よ>を流す。墓参で通るイタリア人達が私達を見るので、バスティアニーニファンで彼のオペラツアーだと言うと、微笑んで通り過ぎていかれた。夕刻カンポ広場に行き中心街を散策。彼も少年期作っていたシエナ名物のパンフォルテの店に案内した。シエナは夜であっても中世の町の美と迫力に包まれる。

3月26日(金)

専用バスでシエナからゆるやかな新緑の丘陵を南へ小1時間走り、サンキィーリコドルチャへ着く。千年以上前の城壁に囲まれた町は、青い空に私達だけの話し声が響き、あとは日の光が制したような光景であった。うす茶色のCollegiataの教会を見る。彼は14歳の時、ここを地区の人々と楽しそうに歩いたのだ。彼の歳月、日本とこの地の異空間、彼の来日から41年、彼への思いを持ちつづけた私達の歳月、感慨深い。ミラノまで高速道路をひた走る。ミラノは真冬のコートが必要な位だ。8時からのアルチンボッリのオペラ公演まで少し市内観光、お買い物、美術館などと分散した。ドゥーモ前の劇場行きのバス乗り場に着くと誰もいない。タクシー乗り場はオペラに行くイタリア人達の長蛇の列で、やっと劇場の前に着くと真っ暗で静まり返っていた。暗い入り口にはストの張り紙一枚だけで誰も居ない。私達は《テンダのベアトリーチェ》のデ・ヴィーアを楽しみにしていた。全員平土間席も取れていたのに、こんな国、観光立国とは言えない、と思った。

3月27日(土)

専用バスでジェノヴァへ。車中、ボローニャで鑑賞予定の《連隊の娘》のCDをかける。ジェノヴァは雨で寒かったが傘を差して重厚なサン・ロレンツォ大聖堂等の観光名所を見る。この町の歴史建造物、海運国の繁栄、《シモン・ボッカネグラ》を彷彿とさせ楽しい。テアトロ・カルロ・フェリーチェへ。雨は上がっていた。新しく建て替えられた劇場で近代的劇場の座席配置だが、2階部分の装飾をオペラセットの窓や扉をモチーフのように描きユニークである。参加者全員、平土間中央部分でかつ前方の席である。売り出し中のドニア・ディミトリューのトスカは良い声で、熱心に演じていた。カヴァラドッシはMiro Dvorsky、スカルピアはIvan Inverardi、ここでもまたバスティアニーニの二枚目スカルピアが頭に登場してしまう。細かい表現にも彼の巧さと艶っぽさと強い声が鳴ってしまう。終演後、海岸沿いの高級レストランへ。レストランは料理も含め全てがエレガントだった。

3月28日(日)

この日から夏時間開始で時計は1時間早くなる。専用バスでサンターガタのヴェルディ別荘前へ。現在はご子孫の方々が住まわれていて外観を道端で見る。少しバスで移動し、ロンコーレのヴェルディの生家と、ヴェルディが少年期に音楽の素養を身に付けた教会を見学する。

ガイドの方はブッセートのヴェルディ協会会員であり、本研究会のことを話すと納得の表情をされた。見学後ブッセートのヴェルディ劇場の外観を見て、テノール歌手カルロ・ベルゴンツィ氏が経営する「ホテル・ドゥエ・フォスカリ」で昼食を取る。ヴェルディゆかりの地は19世紀の佇まい、空気、ヴェルディのオペラへの悶々とした情熱までが体感できる半日であった。パルマのテアトロ・レジオの開演まで近辺のドゥオーモへコレッジョの天井画と洗礼堂のロマネスク彫刻を散策する。この劇場も歴史があり重厚な造りである。席は日曜、マチネ、メジャーなオペラということでパルコの前方であった。この日のオペラ《ボエーム》はミミ:カルラ・マリーア・イッツォ、ムゼッタ:Maya Dashukでよく歌い舞台に溶け込んでいた。ロドルフォのファビオ・サルトーリは若々しく端正な歌唱の中にも甘さもあった。演出がMarcello Grigorovで舞台が明るく四角のスペースを基本にし、家の中と外を区切る簡素化の演出であった。4幕は芸術家4人の男達がふざけて決闘やダンスをするシーンであるが、1962年のバスティアニーニのライヴ録音では彼が女性っぽいしなと声を出すと、大きな笑い声が何回も起きていた。この舞台ではそれはなかった。終了後、傍の木造ファルネーゼ宮殿劇場の拝観時間は変更され見られなかったので、木造の劇場入り口前で以前入った方々からの説明をきいた。川べりを徒歩でホテルまで戻った。終日暖かく晴天であった。

3月29日(月)

専用バスでヴィチェンツァへ。町の多くの建造物が世界遺産に登録され、建築家パッラーディオのテアトロ・オリンピコ、シニョーリ広場に面したバジーリカパッラディアーナ等見るべき箇所が多い。ただ月曜日なので建造物の中には入れなかった。昼食後、専用バスでシルミオーネへ。ガルダ湖が見え出し旧市街に入り、バスティアニーニ終焉の家の前に着く。湖面の傍から彼の部屋を見上げて彼の亡くなったベッドの位置などを説明する。説明しながら静かな波の寄せる音が何度も聞こえてくる。私はこの音を彼は日がな一日聞き、波を見ながらため息をつき、繰り返し自問自答し、病と残る日々を受け入れていったのだろうか、と44歳の彼の姿を浮かべてしまった。夕食までローマ遺跡や愛らしい町並み散策など分かれて楽しむ。夕日が湖面を染める景色は絶景である。レストランにはバスティアニーニの元婚約者のマヌエーラさんに来て頂いた。彼は自分の病と余命がない事を知って婚約者に別れを告げた。マヌエーラさんとは2001年からお付き合いをさせて頂いている。初めてお会いした時、バスティアニーニ程のバリトン歌手はいなかった、これからも決して出ないでしょうと開口一番言われた。彼女はメネギーニ氏(マリア・カラスの元の夫)が、バスティアニーニ没後1周年追悼会をシルミオーネで開催した折に、参加者に配られた金のメダルをご持参下さり皆様に見て頂いた。私達の至福の一夜だった。

3月30日(火)

専用バスでマントヴァへ。参加者は車内で彼のCDからロドリーゴの私は死にます、と歌われるのは昨日のシルミオーネ体験から辛いが、でも聴いていたい気持だと話された。マントヴァのゴンザーガ家のドゥカーレ宮殿は広く、ことごとく西洋美術書に登場するような絵画で埋め尽くされていた。中でもマンテーニャ「夫婦の間」の天井画には興奮した。エルバ広場等を見てモザイク装飾が見事なラヴェンナへ。西ローマ帝国の首都であったが、476年西ローマ帝国滅亡後も東ローマ帝国の総督府がおかれ栄えた古の都である。サン・ヴィターレ教会、ガッラ・プラチーディア廟のモザイク絵画を鑑賞する。市内中心部に戻りダンテの霊廟を見る前に、ダンテの名を冠しているテアトロアリギエーリの前を通る。1945年バスティアニーニがオペラ歌手として本格的にコッリーネでデビューした劇場である。バス歌手誕生である。バスティアニーニの親族と交流食事会に、孫のエットレ・バスティアニーニ氏と奥様、彼の母、彼の妹とそのフィアンセの5人で来て下さった。孫の彼に殆どの方は始めてお会いされた。エットレ氏は開口一番「大阪に来られていた人は・・、そうあそこの人と、もう一人あの人」と当てられた。驚いた。そのとおりであった。大阪とは2002年1月12日に開催した「没後35周年、エットレ・バスティアニーニを偲ぶ会」のことである。食事の間、数名の参加者の方々がバスティアニーニ来日時に接していらっしゃった思い出を伝えてほしいと、私の傍に来て話され、それを彼に伝えた。彼とご家族も熱心に聞かれていた。1日中雨も風もない日和に恵まれた。

3月31日(水)

専用バスでボローニャへ。ボローニャのサン・ペトローニオ聖堂やマッジョーレ広場等を見学後、中心部の目抜き通りを歩く。総アーケードの長さが世界一を実感する。昼食後、美術館巡りや買い物などをしていると、劇場の前にストの張り紙が有りチケット払い戻しがあることがわかる。あろうことかまたもや、なんということか。皆なで払い戻しに行った。《連隊の娘》である。ミラノのオペラと同様、珍しい上演で期待していた演目ばかりがストである。最後の夕食会だったが、オペラや音楽の話で盛り上がり、歌も数名の方が歌って下さった。オペラへの未練とストの腹立たしさ、申し訳なさで一杯だった。

4月1日(木)

専用バスでボローニャ空港へ。ボローニャからパリに到着し、パリの空港で最後のお礼の挨拶をして成田へ向かう便と関西空港の便とに別れた。旅行中、どなたにも病気事故がなくまた盗難にも遭わなかったことが最も嬉しいことだった。

4月2日(金)

無事、成田、関西の空港に到着した。思い返せば実に多くの町を訪ねた。14もの町を巡り、バスで約1500キロ、列車で220キロを走破した。

帰国後も大阪と東京で写真交換会を開き、生涯に幾つかのゆかりの地を訪ねたかったが、それらが叶って夢のようだった、彼の親族だけでなくマヌエーラさんにまでお会いできて幸せだった、と感激して頂けた。一般のツアーで訪ねる機会がない町、個人旅行で行くのが難しい町に行けたと喜ばれた。旅行社はオペラチケット手数料を1円も取っていないよ、と驚かれた。オペラチケットは原則、ツアー申込順にインターネットで全5演目中4演目のチケットを取った。1演目プレミエに出した料金まで旅行社からの請求は律儀に券面どおりであった。私は全員のチケット座席、インターネット販売チケット代金と一致した各人の取得代金一覧表をエクセルで作って配って総合的にチケット状況と料金を確認頂いた。ストに遭ったアルチンボッリ劇場からの払い戻しは、旅行社の交渉により7月初め全員にチケット代金全額返還の小切手が届けられた。
多くの要素を含むツアーをトータルで充実させたい、いささかの不明瞭もない旅行代金でしかも低い料金で行ないたいという、研究会の姿勢と理想を込めたオペラツアーが、初めてだったが実現できた。ストは残念だったが、内容のあるプログラムと私達の伝えたい気持がうまく噛み合って、ご参加の皆様は既に多くのツアーを経験されていたが、今回は記憶に残る旅行であったと言って頂けた。なによりも参加者にバスティアニーニの芸術と人間性、そして私達の研究活動の志を伝えることが出来たように思った。

丸山 幸子(Maruyama Sachiko)
このツアー報告文は2004年7月、日本ヴェルディ協会会報誌 ヴェルディアーナ、Vol、11の掲載文から転載し新たに写真を挿入した。