ツアー報告
研究会ツアーは4回目を数えた。今回ツアープログラム作りで予想外だったのはヴェルディ公演がどの都市でも少なかったことだ。ヨーロッパからアメリカまで検討して見たがヴェルディが少ないことが今年の特徴のように見えた。半面スカラ座もイタリアの都市でもワーグナーが多かった。オペラ愛好家にとってはヴェルディもワーグナー好きも多いので私たちもパリでワーグナーを見ることにした。 参加者11名で添乗員とイタリアの6日間はバスの運転手さんも共に歩き食事し話し、総勢13名で移動した。 ツアーのお楽しみポイントはパリに4泊するコースを作ったことだ。オペラではパリを舞台にしている作品が非常に多いこと、加えて18、19世紀の音楽家、画家、作家などの記念の家や博物館も多く現存している。 6月19日(土)
6月20日(日)
4区マレ地区には16世紀頃から富裕層の集まった館街がある。石畳みの道の両側には強固な棟が幾つも連なる大きな館がある。今はパリ市歴史図書館となった特別に立派で広大な館が目に付く。その先に進むとこれも立派な貴族の館「カルナヴァレ博物館」に着く。貴族の館の広大さと持ち物の富裕さに驚くばかりで、中庭にはルイ14世の像がある。中を見学してヴォージュ広場を横切りながら「ユゴー博物館」へ。ユゴーがここで「レ・ミゼラブル」を書いていたころの館。結構中は広く、多くのユゴーの個人的な持ち物や家具などが展示されている。文豪は長い作家生活をある程度裕福に暮らしていたことが分かる。 昼食後に新オペラ座・バスチーユへ。ワーグナーの《ニーベルングの指環》第1日《ワルキューレ》鑑賞。バスチーユ広場は大きくその横にこれもまた現代建築の大きな劇場が威容を見せている。広場には大きなそして高い塔が立っている。これは1830年の7月革命の犠牲者を偲んで時の王ルイ・フィリップによって建てられた「7月の円柱」である。 参加者の席は、平土間前方と中央の真ん中と総じて大変良い席がネットで取れた。 ワーグナー《ワルキューレ》pm2時開演 フィリップ・ジョルダン指揮(アルミン・ジョルダンの息子)グラーネ・エリカ・クレメールの新演出。ジークムントをロバート・ディーン・スミスが歌うので期待度が大きい。 幕が上がると今までの殆どの舞台はジークムントひとりが命からがら逃げてくるシーンで始まるが、15名程のフンディングの仲間達が意に反した娘とその娘をかばった一派を襲う殺戮で始まる。ほぼ現代風の質素な衣装と兵士は迷彩服風である。フンディングが用意させる食事を彼の仲間たちも一緒に取る。席は前から3列目中央近くだったので、お皿を扱う音や、水の流れが見え音まで聞こえた。ディーン・スミスは悪くもなく、予想の範囲内という感想。ジークリンデのリカルダ・メルベートは役柄をイメージさせるほどの容貌でまた歌もその通りで満足できた。ヴォータンのトーマス・ヨハネス・マイヤー、ブリュンヒルデのカタリーナ・ダレイマンは悪くないが、やや重量感に欠けていたのが難だった。フリッカのイボンヌ・ナエフは存在感あるメッゾソプラノだ。 驚いたのは2幕の幕が開くと、なんとオーケストラ団員全てが舞台正面奥にやや勾配をつけて演奏する姿で見えたのだ。大きなミラーの角度を加えて設置しているのだと気付く。人物の出入りもこのミラーと勾配のアイデァで、効果的だった。新演出だったので何か違うことがあるだろうと予想していたが、3幕もその通りであった。 <ワルキューレの騎行>では、目も眩む程明るい照明の中をストレッチャーの上に全裸の若者兵士が次から次へと運ばれ、看護士のユニフォーム姿のワルキューレ乙女たちの手当てで、生き返り立ちあがって行く。これには私も参加者も驚いた。この場面を「ワルキューレの奇行」と言う方もいる。しかし、作品の原点は傷つき死んだ兵士を運び回復させ新しい任務に就かせるのだから、妙ではない。斬新な演出だが考え工夫されていた。 オペラの各幕の意外性の面白さと心地よい満足感で近くのリヨン駅構内2階のレストラン「ル・トランブルー」へ。国の歴史建造物に指定されているレストランでフランス料理を豪華な内装で味わった。 6月21日(月)
「芸術オマージュコース」午前8時過ぎにホテルを出たので「オランジュリー美術館」には並ばないで入れた。1階の展示室はモネ「睡蓮」の連作が4点ずつ展示されている楕円形の部屋に入る。地下の展示室は19世紀画家の宝庫のような展示室だった。モジリアーニ、スーチン、マチス、セザンヌ、ルノアール、ローランサン、ルソー、ピカソ、ユトリロ、そして、目が釘付けになったドランの『アルルカンとピエロ』の強烈な絵画の力には、ただただ見入り感心するばかりである。オルセー美術館の数多い名画も忘れ難かったが、このオランジュリー美術館の地下展示室は大変実りがある。 コンコルド広場を通ってセーヌ川のコンコルド橋を渡り、地下鉄を乗り継ぎ、「サン・シュルピス教会」へ。入ってすぐの右手の礼拝堂にドラクロワの壁画がある。教会内は薄暗く、しかも身廊内にある大きな絵画であるので鮮明には見えない。しかし、高い窓から差す光の加減で鑑賞位置を変えると絵画が比較的によく見えることがわかる。ここは、世界最大級のパイプオルガンがあることでも有名である。もうひとつ最近有名になったことがある。2003年に映画制作された『ダ・ヴィンチ・コード』で登場したらしい。 ここを出て徒歩で、《ラ・ボエーム》の舞台である屋根裏部屋の前で佇む。近くのビストロで昼食後すぐ近くの「ドラクロワ美術館」へ。通りより一足入った静かな小さな広場に面している。ドラクロワが晩年に住んでいて、デッサンや絵画も飾ってある。地下鉄ソルボンヌ駅まで行き、「中世(旧クリュニー)美術館」へ。昨日までは小寒かったが、6月中旬だ。結構暑くなっていた。 3世紀頃の遺跡を利用して美術館にリニューアルされた。様々なローマ時代や古代の遺跡物や中世の調度品がある。しかし、ここはただの古い遺跡物の展示館ではない。目当てのタペストリー群を見る。ジョルジュ・サンドがこのタペストリー群を発見して、それを「カルメン」原作者メリメに知らせた。そのメリメも大変な教養人であり、また高級官僚として政府の要職に就いていたので、この宝に驚いたのだろう。時の王のルイ・フィリップに買い上げを奏上し、国宝とした言われのあるタペストリーなのだ。「一角獣のタペストリー」と言われている。大きいタペストリーが対となっている。他にも違う題材のタペストリーが掛けられている。絵画のような緻密な色の濃淡やグラデーション、コブラン織や刺繍の細かさだが、気品と穏やかさとどことなく可愛らしさがあり、ただただ溜息である。 日本出発前に選択された「観光コース」参加者は添乗員の方の案内でエッフェル塔、ルーブル美術館、ノートルダム寺院、凱旋門等を回り、夜のセーヌ川クルーズ、(写真右)サル・プレイエル劇場での合唱鑑賞とエッフェル等の夜景を鑑賞しながらのディナーコースを楽しまれた。 もう一方の夜の食事コースはレストラン「ルドワイヤン」で三ツ星そのものを満喫した。 6月22日(火)
ガイド担当者が私たちのグループだけを案内する。劇場の成り立ちや座席にも座って照明のことや、展示物等を熱心に話された。不思議なのだが、実際にここでオペラ鑑賞した時より、空っぽの座席に座って内部を見渡す方が、また観客のいない豪華なロビーの方がその豪華健蘭さを実感でき、参加者も同様に感嘆されていた。 「芸術オマージュコース」は、退出後、地下鉄でマリーア・カラスがメネギーニと別れてから亡くなるまで住んでいたアパルトマン前まで行った。カラスの晩年の心境などを思いめぐらしながら、静かな並木の歩道を歩く。昼食後、ペール・ラシューズ墓地のカラスの墓参に行く。 小さいプレートとは知っていたが、ここまで小さいとは、と絶句するほどで、あの偉大な、あのキャリアのカラスがという思いに皆、胸詰まらせ、感慨深く見つめられていた。 夜は早めの食事を取ってオペラ・コミック座へ向かう。と言っても外はまだ明るい。 ドビュッシー《ペレアスとメリザンド》オペラ・コミック座,PM8時開演 多くの方が眠くなると言われる。指揮サー・ジョン・エリオット・ガーディナーの指揮はテンポ良く進行し、かってないほど退屈と眠気のこなかった指揮と演奏だったと言える。ステファン・ブラウンシュヴァイグ演出はなにより舞台照明が明るいのでそれも眠気の来なかったことに繋がる。ペレアスはフィリップ・アディス、メリザンド Karen Vourc’h、ゴロー Marc Barrard、アルケルMarkus Hollop、ジュヌヴィエーヴはナタリー・シュトゥッツマン。 実に多くの大作曲のオペラを初演してきたホールである。オベール《フラ・ディアーヴォロ》《マノン・レスコー》、マイヤベーア《北極星》、ベルリオーズ《ファウストの劫罰》、トマ《ミニョン》、オッフェンバック《ホフマン物語》、ドリーブ《ラクメ》、マスネ《マノン》《エスクラルモンド》、ビゼー《カルメン》などが挙げられる。 淡々と劇が進行し、水彩画のような音楽であるが、そこで繰り広げられるのは殺人まで起きる嫉妬劇。メルヘンの味わいというより、メリザンドを中心にして、結構人間の深い内面を描いているドラマだ。そのような内容なのに、何しろ起伏のない音楽であるので、却って興味があり、実際の舞台公演をずっと見たいと思っていた。今までの見ていた2種類映像から、静かな音楽で、メリハリのない進行を覚悟していた。しかし、これほどスピーディなこの作品の上演を知らない。ホールを出た後、皆さん、面白く見られたと言われていた。 6月23日(水)ミラノ
オペラ鑑賞の支度をして、スカラ座近くで夕食を取り、《ファウスト》鑑賞の予定だった。食事中にストライキだとわかった。出発前にイタリア政府が文化芸術支援費用削減の方針を出したことに、劇場側が反発し、出発の2カ月ほど前からストライキが起こっている報道があった。その後もローマ、トリノ、カラカラ劇場、トリエステなどのストライキもあった。スカラ座では出発前の公演もストライキがあった。このようなことはイタリア人オペラ鑑賞者でも望んでいないだろう。グノーの《ファウスト》で、MET人気テノール歌手マルチェッロ・ジョルダーニ、バレンティーノをダニボール・イェニスが歌うのにと腹立たしいことこの上ない。イタリアでストライキに遭うとストライキ自体よりも、その対処がぞんざいで横柄な態度であるので、「何が観光立国だ!」といつも腹立たしく思う。忿懣やるかたないが、仕方ない。ストライキと関係ないことだがバスティアニーニが最も回数多く出演したのはミラノ・スカラ座だった。 6月24日(木)シルミオーネ
高速道路でシルミオーネへ。 シルミオーネはご存じのように風光明媚な高級保養地で有名だ。カラスとメネギーニがこの地に別荘を持ち仲良く住んでいたことでも知られている。バスティアニーニがここで暮らし亡くなった家もある。その部屋に立ち、バスティアニーニが湖を眺め続けたバルコニーに立つと、長い時と深い思いが押し寄せ、今ここにいるという不思議さと感慨で胸一杯になる。2007年には「バスティアニーニ没後40年」を記念してバスティアニーニの元婚約者マヌエーラさんと共にこの家の正面の壁に、彼が亡くなった家である碑文のプレートを設置した。それも今回参加者に見て貰った。
この家を出て、絶えず道の両側に湖面が見える並木のある歩道を徒歩で街中に昼食に向かう。13世紀のスカラ家・マスティーノⅠ世によって建てられた城塞が、シルミオーネの町のシンボルとなっている。また町の入場門のような役割も果たしている。ここへは大型車は一切入れないし、ホテル宿泊者のみのタクシーと乗用車しか入られない。町は土産店やレストランとホテル、小道に目をやれば湖が光輝いて見えるという、心浮き立つロケーションである。 岬の先端のローマ時代の遺跡Roman ruins Sirmione、ローマ遺跡「カトゥッルスの洞窟」へも案内する。 6月25日(金)ガルダ湖一周へ
まずサーロという漁村で降り立つ。ここはムッソリーニがサーロ共和国を樹立した町として有名だが今は鄙びた漁村の風情だ。湖を左側から周り、先端を過ぎて、今度は右からヴェローナまで降りる形となる。途中マルチェジーネで昼食を取る。古くからの街並みを残すリゾート地でなんとも可愛い町だ。レストランは湖面に突きだし、波が静かに打つ小さな音が聞こえる。風は心地よく、眺望万点で旅行の疲れを一時忘れさせてくれる。 アレーナ・ディ・ヴェローナ 《アイーダ》pm9:15開演 今年のアレーナは全ての演目がフランコ・ゼッフィレッリ演出だ。彼だから、そしてヴェローナだからと豪華仕様の舞台を期待し過ぎでいたのかもしれない。それほどでもない。 アレーナの舞台はかなりの横幅を舞台として使うので、前列中央付近で見ている者には、兵士や民衆が両端に広がっているので始終首を左右に動かさなくてはならないというのが贅沢な悩みかもしれない。 アレーナは歌手の声は散らないし不思議だが、普通のホールで聴くように大きく自然な声で聞える。アマリッリ・ニッツァのアイーダは健闘していた。この公演2カ月程前にBSHiで放映されたマッシモ劇場の《シモン・ボッカネグラ》のアメーリア(マリーア)を歌った時より、こなれた歌い方だった。まだ若い。これからもっと伸びてほしいと願う。ラダメスのマルコ・ベルティは注目する。輝く声であり、歌唱も丁寧で力もある。売れっ子のドローラ・ザジックのアムネリスは、これだけの歌手だから当然と言えば当然であるが、声は流石、有名歌手の声をしている。もう少し歌にも迫力とかオーラを感じさせてもらえれば良かったかと思う。 不満はダニエル・オーレンの指揮である。じっとして振らない。黙ってふらない。結構な年だが、始終飛びはね体を左右に振り目ざわりだった。イライラするのはその度に、しゃがれた声でうめきわめく。始終、力を入れたい部分でうめくような声をだす。殆どずっとそんな風なので、どこに大音量の音を望んでいるのかわからないほどだ。だからこれ程身ぶり手ぶりの指揮であっても、音楽はそれほどメリハリのある音を引き出しているようには聞えなかった。しかし、少し後ろの席の人は分からなかったと言われていた。 ふたつのシーンについて特記したい。3幕のテーベ川辺で、アモナスロがアイーダにエジプト軍が待機している道を聞き出せと迫る場について。ドラマ展開のクライマックスの重要なシーンのひとつだ。アイーダはラダメスに恋し、ラダメスも彼女を愛していることを知っての上でこう命令するのだが、アモナスロがいつどこでアイーダの本心を知ったかという歌詞は全くない。 ルカ・ロンコーニ演出のスカラ座公演で、パバロッティのラダメス、キアーラのアイーダ、ファン・ポンスのアモナスロ、ディミトローヴァのアムネリス公演では、明確な演技とカメラワークがなされている。2幕2場の凱旋したラダメスに、国王は「娘アムネリスと共に国を治めよ」という歌詞がある。その時だ、アイーダとラダメスはぎょっとし、アイーダの落胆の顔をアモナスロが見て悟る。「そうか、娘はラダメスが好きなのだ」と。ここは3人共愛に関連する歌詞が一言もない。アムネリスだけが勝ち誇って「そらご覧、奴隷女めが」というような歌詞を独白で歌う。アモナスロは二人を観察して相思相愛だと確信する。だから3幕で、二人が必ず会って言葉を交わすはずだと踏んでやって来るのである。ところが他の多くの公演映像でもきちんとこの演技がされていないことが多い。または映像なので表情を映し出してくれていなければ確認できない。舞台で見ていても全体のシーンが視野に入る位置の席でなければ難しいし、あっという間なので実感できたことがなかった。今回も残念ながら確認できず不首尾に終わってしまった。 もう一か所、ヴェルディの《アイーダ》とドニゼッティの《ポリウート》酷似の旋律の場について。《ポリウート》をよくご存じの方なら、みんな「なに、これっ」と言われる。《アイーダ》を聴いている時より《ポリウート》を聴いている時の方が気付く。 《アイーダ》2幕2場凱旋の場で、祝宴のバレーシーンが終わるとコーラスになり、ラダメス達が凱旋してくる、その直前のコーラスが《ポリウート》2幕2場の祭司たちと女性たちのコーラスの部分と酷似している。舞台では、ラダメス入場シーンの時である。 《アイーダ》作曲着手1870年で、《ポリウート》作曲時1838年頃と30年余りの開きがある。なんとも不思議だ。真似たかのようにそっくりだ。ヴェルディはドニゼッティの音楽を高く評価していたから自然に旋律が溢れて来たのだろうか。真似たのではないと考えたい。現にかなり多くの作曲家同士の作品から似た旋律は多く発見できる。それらはつい良い旋律を取り出してしまったのだろうか。それとも音楽的思考つまり、同じ才能の作曲家が、シーンのイメージで共通したと捉えられなくもない。ということは《アイーダ》は新しい音楽の兆しとカヴァッティーナとカバレッタ形式が完全に消えてから久しくドラマと音楽の一致技法が熟成されつつあったのに、ヴェルディの中では、まだ本当に新しい音が見つけられなかった部分も大いにあったのかと考えてしまう。 カラス、バスティアニーニ、コレッリの豪華スター、またマルティヌッチ、ブルゾンのCDを聴かれて、疑問に思われ尋ねてこられ、ヴェルディ初期作品でドニゼッティの旋律と類似している個所も話しているが、ここでの個所についてはヴェルディの最円熟期の作品なので考え込んでしまう。ともかくもドニゼッティ作品を更に高く評価することに繋がったのは確かだ。 さて、アレーナでこれらの留意点を心して鑑賞したかったが、声の饗宴に浸ってしまいなんとなくあっけなく済んでしまった。 6月26日(土)
孫のエットレ氏と彼の母上(30数年前に亡くなったバスティアニーニの息子さんの奥様)が笑顔いっぱいで迎えて貰った。 前回のツアーで参加された3名の参加者のお顔をしっかり覚えてられた。何名かの方は彼にプレゼントを持ってこられ受け取って貰われた。 アレーナ・ディ・ヴェローナ《蝶々夫人》pm9:30開演 昨夜のダニエル・オーレンの指揮ぶりに辟易したが、今宵はアントーニオ・ピッロリという若い指揮者だった。体は動かず、でも指揮は要所を押さえメリハリがある指揮ぶりでほっとした。蝶々さんを歌うのは中国人歌手のヒュイ・ヘーだが、なかなかの声量で堂々とした歌唱力を持っていた。確かに繊細さや優雅さはないが、それは日本人ほどこだわらないのだから仕方ないと思わなくてはならないだろう。ゼッフィレッリはこの作品では、他のオペラのように発想が作品に結実しないのかもしれない。彼がこの作品から受ける自己の東洋イメージを信じて、演出を考えることから出発しているからだろう。どの外国人演出家もそうだ。どれだけ年数の経過があっても変わらない。オペラ音楽を楽しむだけなら良いではないかと思うしかない。 6月27日(日)
生家から近くに彼が通っていた小学校がある。その通っていた小学校の角にバスティアニーニ通りというプレートもかかっている。今は幼稚園になっていて、隣にはホテルがある。道を歩いていると「パリオ」の祭りが近く、旗を持ち、パリオの祭り独特の太鼓を鳴らしながらの行列を見ることが出来た。 昼食に町の中心「世界一美しい広場」と言われるカンポ広場を見ながらレストランへ。そしてこれもシエナが誇る大聖堂がある。フィレンツェの大聖堂は余りにも大きく、また豪勢な美で目も眩むほどだが、こちらの大聖堂は規模も違えば美しさの質も違う。落ち着いた硬質美と格調を持っている。中を見学する。深くて濃い緑の石を白い大理石を線上に組み合わせていて、その大胆なデザインは深く記憶に残る。緑といっても殆ど白黒のコンビに見える。 ドゥーモを出て、キジ・サラチーニ音楽院の入り口でこの由緒ある音楽院の雰囲気を感じながら佇む。世界各国から学生が集まる。夏期講習ではベルゴンツィや今は亡きカップチッリなども名を連ねていた。指揮、楽器コースも勿論ある。元はキジ・サラチーニ伯爵の大邸宅だった。少年バスティアニーニもこの貴族から地元の有力者の働きで援助されていたことがあった。 「パンテーラ本部」見学。パリオは400年の歴史のあるシエナ伝統の祭りで、地区で競う。カンポ広場の歩道部分に砂を入れ、裸馬で3周し、一位を競う。一位でゴールしても、ただ地区の栄誉のみという祭りだ。しかし、シエナの人々はこのために生きているというほど熱を入れる。地区ごとに博物館を兼ねる地区の本部がある。 バスティアニーニが生まれ育った地区は「パンテーラ」である。パリオ行事に参加するチーム名で、地区の人々は祭りだけでなく、日ごろから地区に結束して暮らしている。パリオ行事や、常日頃の本部維持や地区の行事にも大変な費用がかかる。バスティアニーニは1959年1月から亡くなる1967年1月まで、パンテーラの最高役職カピターレ職についていた。多忙な歌手活動の中でもこのカピターノ職を怠らなかった。勿論多額の費用を援助し続けた。400年間のパンテーラ地区のパリオ勝利の旗や、地区のパリオ出場や記念行事に着用する衣装などの展示を参加者に解説して見て貰った。 このあとバスティアニーニの墓参に向かう。生家から城壁の門を出て5分ほど緩やかな坂道を下ると、大きな墓地に入る。また来ることが出来た。 墓石の左にバスティアニーニの写真がある。何度訪れて、この写真と語り合ったことだろう。その都度、研究の進展によって、語る内容は異なるが、心の中をいつも話している。他の参加者も再び三度と墓前に立てる感慨を話され、もっと長く生きて歌ってほしかった無念の気持ちを伝えられていることだろう。それはバスティアニーニ本人の無念の思いと重なる。私自身の思いと共にここに来られなかった会員の方にも代わって思いを伝えた 6時過ぎでもまだ明るい。再びカンポ広場でゆっくり広場の景観とパリオが近い祭りの雰囲気を楽しみ食事のレストランに向かう。食事のあと、9時半頃広場に入ると、空はまだ暗くなる一歩手前の青い空だった。5分もすると、見る見る空が暗くなった。去りがたいカンポ広場である。 6月28日(月)
丘の上の可愛い町を散策し買い物を楽しみローマに入る。ローマに入ると、大きな建造物が次から次にバスの正面ガラスに現れてくる。サン・ピエトロ大聖堂、ポポロ広場の双子教会と言われているふたつの対になった教会、サンタンジェロ城が目の前に大きく見えてくる。ローマは歴史の宝庫で巨大建築ばかりだ。最後の食事会を楽しみ5つ星の素晴らしいホテルでお茶を飲みツアーの思い出を語り合った。 6月29日(火)
ローマから帰国の旅に6月30日(水)
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