2007年4月8日「三大名歌手を偲ぶシンポジウム」第2部から 「エットレ・バスティアニーニに関する報告」Ettore Bastianini

「バスティアニーニについて「心かき乱す憂愁の美声」と題して」

バスティアニーニ Bastianini

丸山 幸子 「エットレ・バスティアニーニ研究会」代表
Sachiko Maruyama

没後40周年を記念し、芸術とその芸術に生きた道を伝え偲ぶ。
バスティアニーニの偉業を称え、故人を偲ぶ観点はただひとつ、歌手として人々に記憶される歌唱芸術を残したことをお伝えしたい。彼自身も人々に自分の声を記憶されることを最後まで願っていただろう。

sachiko maruyamaバスティアニーニが日本で多くの人々の前に登場したのは1963年NHKが招聘したイタリア歌劇団公演「イル・トロヴァトーレ」だった。大バリトン歌手でまだ来日していなかったという点で、そしてルーナ伯爵を歌うということでも期待され待たれていた。美声と歌唱の素晴らしさを知ってはいても、当時は歌う姿を殆どの人が見ることができなかった。公演では声と歌唱力は当然絶賛されたが、それ以上に美しい立ち姿、洗練された歌い方と動き、雰囲気に人々は驚き、しかも相当数の人々を生涯魅了させてしまった。ヴェルディが作ったルーナ伯爵の設定以上にグレードの高い気品ある雰囲気で、恋仇に苦しみ弟を殺したジプシー女まで探す使命を持つ若い伯爵像を見せた。
しかしこの時は結構身体がきつかったと想像できる。前年1962年に癌であることがわかり、1963年1月に誰にも病名を告げずに治療を行いながら歌手活動を続ける決心をしていた。

バリトン歌手として14年間の活躍の中で、来日公演は彼の歌手活動では最後の方に当たり、彼の声の全盛期は病気発覚以前まで1962年秋頃までと言える。
この秋以降、彼は残された今後の道をどう選んだか。
歌手としての生き方を選び、オペラ芸術への思いと信念を忘れなかった。
1963年から最後の舞台1965年12月まで歌い続けたのはこの一念であった。


映像と歌

全盛期残された少ない映像、1955年「椿姫」1957年「イル・トロヴァトーレ」1958年「運命の力」から、美声もさることながら的確な歌唱表現と自然な演技を見る。 シエナのパリオでのRAIインタビュー、「ポリウト」終了後カラスの横にいる姿等の映像も見る。 バスティアニーニらしさに溢れる曲から 「おまえこそ心汚す者」はバスティアニーニの声と歌唱と魅力において良く表出しているうちのひとつである。このアリアをじっくり聴く。聴くものを堪らなくさせる魅力の声、デル・モナコは「憂愁の声」と表現した。高貴な歌からのイメージは本人と一致する等々の特有の魅力を持っていた。


写真から

彼の舞台と彼とシエナとの絆、遺品や親族との交流などを解説しながら紹介。





エピソード等

カラスと同僚としての交流や、カラスが彼の訃報に悲しんだ逸話、デル・モナコの追悼の声、彼の息子が交通事故を起こし危篤となった時の感情などの紹介から、芸術と人間バスティアニーニに迫る。

1952年1月バリトンになってから1965年12月までの14年間の短い歌手活動だったが、44の役柄を演じバス時代を含めると約70の役を演じた。1962年秋、病気に気付いたのは、バリトン歌手となって頂点に達した1958年からまだ数年しか経過していなかった頃だ。劇場から認められ人気歌手となり、オペラに意欲が満ち溢れ、多忙な公演をこなして築いてきた11年は余りにも早くしかも僅かな期間であっただろう。
彼の人生は少年期から歌で認められ、歌手になることだけをめざし、努力してスターバリトン歌手になった。でも僅か11年ではまだまだ歌いたかっただろう。声の不調にも諦めきれなかっただろう。自分が築いた少年期からの夢の実現、芸術への道・オペラが人生そのものだったからだ。
バスティアニーニは歌手としての業績を評価されることを望んでいたはずだし、実際素晴らしい評価を受けていた。それゆえなによりも聴衆に声をまだ覚えておいてほしかっただろう。忘れないでほしい、バスティアニーニの声を、歌唱力をと願っていただろう。だから1963年から1965年まで懸命に歌い続けたのではないだろうか。

最後に三大歌劇場で最後の舞台となった役が全てロドリーゴであったことや、歌手として最後の舞台もロドリーゴ役で三大歌劇場のひとつメトロポリタン歌劇場であった偶然と、息を引き取る時、結婚できなかった最愛の女性に看取られたこれらの偶然は、彼を愛する私達にとっては彼の死を悼み献花のような慰めと敬意を表されたように思える。


以上のような内容でバスティアニーニの没後40周年を偲び語った。 
この後、1965年6月9日~23日まで東京、横浜、大阪での6回のリサイタルで日本を代表する伴奏ピアニスト三浦洋一氏に、2週間余りご一緒された思い出を語って頂いた。

特別ゲスト

伴奏ピアニスト三浦洋一氏 Pianista Youichi Miura

「1965年6月バスティアニーニの6回のリサイタルで2週間余りご一緒できこれほど光栄だったことはない。本当に上品できれいな人だった。舞台のあと、いつも一緒に食事をしていたが、食事する姿まで美しかった。」また大阪でしゃぶしゃぶ料理を三浦氏がご馳走された折りは大変な食欲であったことなど楽しいエピソードを交えてお話下さった。
このほかリサイタル時の「セヴィリアの理髪師」フィガロの早口アリアの箇所では、三浦氏のご解説に参加者は感嘆の声を上げられて見入っていた。
バスティアニーニの生涯最後の録音がトスティの「最後の歌」であったことなども、不思議な因縁を感じると触れられた。「思い出は一杯あるけれど、もしできるものならまた一緒に仕事をしたい。本当に感じの良い人だった」と心の底から懐古されて話された笑顔と熱い思いに参加者の皆様も深く心動かされたご様子だった。


今回の3大歌手が、稀代の名歌手の中でも突出していて、今もってこれら歌手陣の力量を凌ぐ舞台は多くなく、だからこそ敬意を捧げ伝える意義があると考えている。 
また3歌手を知らない世代のオペラファンにも、今日のオペラ芸術と歌手達と比較し、感受、記憶してもらうひとつの機会になれたなら幸いだった。 
しかし、そのようなことよりも、なによりもオペラを愛する多くの参加者と共に3歌手の歌と感動を共有できた会だった。 
今回の催しにおいて、研究会が「エットレ・バスティアニーニ没後40周年」を、1992年25周年、2002年35周年に次いで開催した追悼記念の会と位置付けている。バスティアニーニの墓前で報告したい。


当日の第1部 マリア・カラスと第2部 マリオ・デル・モナコについての内容を簡単に紹介する。
カラス

来日時は全盛期を遥かに過ぎ、オペラ公演もなく、それゆえに日本ではカラスは「大いなる幻影」だと。大歌手と注目される以前からのものと、コンサート活動を中心とした時期までの歌を聴くが、どの時期の声であってもカラスという存在を示していた。まさに100年に一度の大ソプラノであったと締め括くった。

デル・モナコ

日本公演の《オテッロ》や《アンドレア・シェニエ》は、「これぞ彼の真骨頂ともいうべき特色が溢れていた」と語り、シェニエのオペラ映像からも彼独自の領域である声の特徴を解説した。またカストラートの時代からの声の変遷、バリトンの役柄や他のテノールにも言及。最後もデル・モナコの迫真的な《オテッロ》死の映像で終えた。

この後、会場から数階上のパーティ会場で参加者との懇親パーティを行った。

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